第94話 保健室催眠

「あれ?先輩じゃないですか。なんでいるんですか?」


 枕に頭を預けながら私は言った。


「皐月に聞いた。……催眠誘導、始めるよ」

「ダメですよ。ここ学校の保健室ですよ?背徳感で興奮してしまうのは分かりますけど、先生が戻ってきたらどうするんですか?」

「詩音はどうしてこんな時まで……」


 胸を庇うように身をよじる私を見て、先輩は呆れたようにため息を吐いた。それから私の頭に優しく触れる。


「いい子だから、いうこと聞いて」


 胸がドキリとして、頬が余計に熱くなる。考えてみると、先輩がここまで強引に催眠をかけようとしてくることなんて滅多にない。少し新鮮などきどきがある。


「分かりましたよ。先輩は本当に仕方がないですね」


 私がそう答えると、先輩は小さく笑いながらまたため息を吐いた。それから仕切り直すように一度息を吸って言った。


「じゃあ、始めるね。まずは深呼吸から。吸って——吐いて——」


 私は目をつぶって、腹式呼吸で深呼吸をする。


「俺の誘導にタイミングが合わなくてもいいから、リラックスできる、楽なペースで。吸って——吐いて——」


 そう言いながらも、先輩の声が私の呼吸のタイミングにぴったりと寄り添っていく。


「深呼吸すると、身体から力が抜ける。右腕に意識を向けて——右腕から力が抜ける——右腕が重い——」


 ああ、これは良く知っている。自律訓練法の誘導だ。右腕の重さを感じる。ベッドに沈み込むように感じる。


「左腕に意識を向けて——左腕から力が抜ける——左腕が重い——右脚が、重い——左脚が重い——」


 全身が重くなって、動けない。でも、その脱力感が心地いい。


「身体の重さを感じると、身体が温かくなってくる。右腕が、ぽかぽか、ぽかぽか気持ちいい——左腕が温かくて、ぽかぽか、ぽかぽか、気持ちいい——」


 先輩が1段階ずつ丁寧に誘導を重ねる。身体がリラックスして、意識がふわふわしてくる。余計な力が抜けて、身体が温かくて、もう苦しくない——


 ——「ん、んん」


 目を覚ました私は、目を擦りながら身体を捻った。先輩はいない。まだ催眠から覚めきっていない重さを感じて、手を握って、開いて、それから伸びをする。消去動作、と呼ばれるものだ。制服のワイシャツは不快に湿っていて、私は辺りを見回した。


「ここは——」

「起きた?」


 カーテンの間からのぞいた養護教諭の顔にビクッとする。


「だいぶ良くなった感じかな。熱測ってもらえる?」


 先生はそう言いながらベッドの脇に来ると体温計を差し出した。私は言われるままに体温計を腋にはさむ。熱を測っている間に、頭の中で状況が整理されてくる。


「うん、まだ微熱があるけど、これなら歩いて帰れそうだね?」


 体温計を受け取った先生が言った。


「あの、今って」

「もう放課後だよ。あなたは午後の間、ずっとぐっすり寝てたの。まあ、そのおかげでここまで回復したんだろうけど。今度からは、熱がある日は最初から休むこと」


 先生の言葉に私は頷いて、ベッドから降りる。まだ混乱している部分はあるけれど。午後の授業の内容、明日にでも皐月にノートを見せてもらわないと。


「でも、ちょっとびっくりしちゃった。昼休みにあなたが保健室に来た時は、少し朦朧とするくらい苦しそうで、こりゃ眠るのも大変かなぁ〜って思ってたのに、ちょっと目を離したら気持ちよさそうに寝てるんだもん。まあ、いいことだけどね」


 ——


「……お礼は言いませんよ」

「なんでそっちが礼を言うんだよ。……ありがとう、教えてくれて。俺に詩音を助けさせてくれて」

「……これだから、この男は」

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