第86話 相合傘催眠
ある堕天使は「傘は人類の叡智の結晶だ」と言った。ある死神は「傘が嫌いな理由なら淀まずいくつも言える」と言った。どちらかと言うと俺は死神の方に賛成だ。こんな欠陥品ってない。風が吹けば雨が吹き込んでくるし、足元が濡れることも避けられない。自分の家の玄関の前で、ローファーの先から染み込んだ雨につま先が冷えていくのを感じながらそんなことを考えていると、後ろから俺を呼ぶ声がした。
「先輩」
「詩音。どうしてここに?学校は反対だろ?」
振り返って俺が訊ねると、詩音は何かを企むような笑顔を浮かべながら、少し前のめりになるような体勢で答えた。
「いえ、今朝、素敵な催眠を思いつきましてですね。昼休みにはかけたいので、朝のうちに先輩にアポを取っておこうと思いまして」
「だいぶ脳が混乱するセリフだな……。とうとう俺の社会的生命を抹殺しにきたか」
「そんなんじゃないですから!!……ちょっと恥ずかしいことになるかもしれないですけど」
急き込むように言った割には、尻すぼみに頬を赤くしながら詩音が顔を背ける。その反応を見て、俺は嫌な予感がした。というか、『恥ずかしいことになる』と言われて誰が進んで催眠をかけられるというのか。俺は大きなため息をついて言った。
「分かった。他人に見られないところでな」
「ほんとうですか!ありがとうございます、先輩」
この曇天の中でも周囲が少しだけ明るくなるような笑顔で詩音は言った。俺はやれやれと首を振りながら、少し前ほど身体の冷えが気にならないことに気づいていた。
——
屋上で昼食というのは学園モノの定番だけれど、実際には屋上が開放されている高校なんて日本にほとんど無いだろう。だから、閉鎖された屋上の扉の前に昼休みに来る生徒などほとんどいなくて、逆に言えば、秘密を持った生徒にはある種定番のスポットになっていた。
「では、先輩。暗示をかけていきますね。あまり丁寧に誘導している時間もないので、うまくかかるといいんですが」
目の前にしゃがんだ詩音が言う。こうして、薄暗い踊り場で向かい合って座っていると、何かいけないことをしている気分になって鼓動が速くなる。俺は目をつぶって、体重を壁に預ける。
「いきますよ。吸って、吐いて——」
詩音の言葉に合わせて深呼吸をする。意識の手放し方も、もうずいぶん慣れたものだ。
「——こうやって、先輩が全てを委ねてくれているのを見ると、胸がきゅってなるんです」
意識と無意識の境目の中で、そんな言葉を聞いたような気がした。
パァン
手を叩く音に意識が浮上する。
「おはようございます、先輩。——放課後、楽しみにしてますね?」
——
「参ったな」
濡れた靴を履きながら、昇降口でこぼした。今日は一日雨だというのに、傘を忘れてくるなんて。外を眺めても雨は依然として本降りで、弱まる気配は無い。
「お疲れ様です。……どうしたんですか?先輩」
詩音に呼びかけられて振り返る。今朝も同じようなことがあったな?
「あ、詩音おつかれ。いや、傘を持ってき忘れたからどうしようかなって」
俺がそう言うと、詩音はあきれたようにため息をついて言った。
「はぁ〜。仕方ありませんね。私の傘を貸してあげます」
「ありがたいけど、詩音はどうするの?」
気遣ったつもりの言葉だったのだけれど、詩音はムッとしたように眉間にしわを寄せた。
「なんで1人で使う気になってるんですか。私も入るに決まってるじゃないですか」
「いや、折り畳みでも持ってるのかと思って」
俺がそう言うと、詩音はさらに深いため息をついて首を振った。2人で1つの傘を使うということは、つまり、相合傘、というやつになるだろう。
「そうだ。途中のコンビニでビニール傘買うから、そこまでなら」
「ダメですよ。見た人に呆れられますよ?なんて無駄なんだろう、環境破壊だ、って」
頬が熱くなるのを感じながら提案した折衷案を、詩音が食い気味に却下する。
「相合傘の方が呆れられると思うけど……」
「嫌なら私ひとりで帰りますけど?」
詩音の言葉に反論を呑み込んで、ため息にして吐き出した。仕方がないだろう。今回は俺が助けてもらう側なのだし、そもそも詩音がやると決めたことを曲げられた試しがない。
「分かった。行こう」
そう言って、俺は靴を履いた。軒下で傘を受け取って広げると、詩音が少し弾むようなステップで傘に入ってきた。
「はい、行きましょう」
そう言って、雨音の中をふたりで下校し始める。考えてみると、こんなにぴったり寄り添って歩いたことはなかったように思う。
「そういえば、詩音の傘なのになんで俺が差してるの?」
「私が差すと先輩の頭にぶつかっちゃいますよ」
「まあ、それはそうか……」
そんなことを言いながら歩き続けるけれど、ただでさえ雨な上に詩音のペースに合わせているせいで、いつもの通学路が倍くらい長く感じる。
「そういえば、人の声が一番綺麗に聞こえるのは雨の日の、傘の下なんだって。受け売りだけどね」
「そうなんですか」
詩音が丸い目で見上げる。
「ああ。雨粒で余計な音が吸収されて、傘で反響して……だったかな」
それを聞いた詩音は、いたずらっぽい笑顔を浮かべて俺に訊ねる。
「先輩は私の声を一番綺麗に聴いて惚れ直した、ということですね?」
「いや?特に変わらないなぁ」
俺の返答に詩音は少し頬を膨らませるも、すぐにニヤついた笑顔になって俺に言う。
「ははぁ。つまり先輩はずっと私にメロメロなので、惚れ直す暇がないと」
「そうだな。その通りだ」
「まったく先輩ったら……先輩!?」
一拍遅れて俺の返答を理解したのか、詩音はうんうんとうなずいてから小さく飛びあがった。それを見て俺は小さく笑みを浮かべる。
「どうかした、詩音?耳が赤くなってるよ?」
「っ〜〜!」
追い討ちをして、クスクスと笑う。攻めてるうちはすぐに調子に乗るくせに、反撃されると弱い。と、そんなことを考えていると詩音が俺の傘を持つ腕にぎゅっとしがみついた。
「詩音!?」
今度はこっちが小さく飛び上がる。
「こっちのほうが濡れにくいですし、温めあった方が合理的です。寒いので」
詩音が目を背けながら言う。俺は、自分も耳が真っ赤になっていることが分かった。
「あ」
そのまま歩いてしばらくして、詩音は小さく声を漏らした。いつのまにか、詩音の家の前にたどり着いていた。
「さて、ここからどうするかな」
詩音の家の軒下で俺は言った。俺の家まではもう少しあるのだけれど、まさか詩音を往復させるわけにはいかないし。まあ、濡れて帰ってもそこまで困る距離では無いのだけれど。あ、詩音の傘を借りて明日返してもいいのか。
「……仕方ないですね」
詩音は、少し名残惜しそうに俺を見上げながら言った。
「ここから先は、先輩は自分の傘で帰ってください」
「はい?」
詩音の言葉の意味が分からずに聞き返す。
パチン
指パッチンの音。
催眠が解けた俺は、自分が左手に傘を握っていることに気づいた。登校する時に使っていた、俺の傘だ。
「ありがとうございます、先輩。やっぱり、思った通りに素敵でした」
そう言って詩音は家に入って行った。取り残された俺は詩音の家に背を向けて、残りの帰り道に向かうのだけれど、客観的に見たら俺は『自分も傘を持っているのにわざわざ相合傘をしている彼氏』だったわけで……
「っ〜〜〜!!」
これまでの道の倍の恥ずかしさを感じながら、早足で家に逃げ帰った。
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