第74話 四つん這い催眠

 パァン


「こ、これは……」


 トランス状態から目が覚めて、目の前の景色に絶句した。いや、景色というか、見えているのはフローリングの床だけなのだけれど。


「うっ」


 直後、背中にかかった重さに短く苦悶の声を上げる。


「おや、先輩。目が覚めましたか」


 上から降ってきた声の主は、後輩で、恋人で、この『四つん這いで動けなくなる』という催眠を俺にかけた春野詩音だ。


「お、重い」


 詩音は俺の腰の上に横向きに座って、全体重を俺に預けていた。身体を支える両腕が小さく震える。もう少し手前に手をつくことができればいくらか楽になるような気もするのだけれど、催眠のせいで床から手が離れない。俺の言葉に詩音は少しムッとしたように言った。


「失礼ですね、レディに重いなんて。大丈夫ですよ、私、重力を感じない体質なんで」

「何の設定だ、それは。なんかの怪異にでも遭ってんのか。というか俺は感じるんだが!?」


 俺がそういうと、詩音は訝しむような声で言った。


「先輩、まだ日も高いというのに大声で何を言ってるんですか?」

「は?」

「『俺は感じる』だなんて。カクヨム運営に怒られても知りませんよ?」

「重力の話だろうが!!」


 俺が叫ぶと詩音はくっくっと笑って、詩音のお尻が俺の上から離れた。


「仕方がないですね、降りてあげますよ。先輩は椅子扱いがご不満みたいですし」

「椅子扱いされて満足なやつがいるのかよ」

「残念です。先輩は私の椅子になら喜んでなってくれると思ってたんですが」

「なんでだよ!」


 割と本気で怒声をあげているのに、口元を手で押さえながら笑う詩音は可愛い。


「気を取り直して、先輩がその体勢の時しかできない遊びをしましょう」


 四つん這いの俺にしゃがんで目を合わせながら詩音が言う。


「この体勢の時しかできない遊び?」


 俺のおうむ返しに詩音はうなずく。嫌な予感しかしないのだけれど。そんなことを思っていると、詩音が腕と膝の間から俺の下に潜り込んで両手の間から顔を出した。


「床ドンごっこです!」


 ドヤ顔で詩音はそう言った。割と穏当な内容の遊びでほっとする。


「やだ、先輩……顔が近いです。どうしたんですか?いきなりこんなに強引に」


 ……芝居じみた詩音のセリフにイラッとくる。ただ、それとは全く関係ないこととして肘のあたりの震えが大きくなる。俺の反応を見て詩音が不満げに頬を膨らませる。


「ちょっとくらい乗ってくれてもいいじゃないですか。なんで黙ってるんですか」

「悪いけど、今そんな余裕ない」

「ダメですよ先輩、私たちはまだ高校生……」

「小芝居はいいから早くどいて」


 にべもなく俺がそう言うと、詩音は眉間にしわを寄せる。


「先輩、なんでそんなに怒ってるんですか?さては、可愛い後輩がこんなに近くにいるのに触れなくて焦れちゃったんですね?」

「違う、どけ」


 詩音は俺の言葉に耳を貸さずに、やれやれとばかりに首を振って言った。


「仕方がない先輩ですね。先に少しだけキスしてあげます。そのあとは、ちゃんと床ドンごっこに付き合ってくださいね」


 そう言って詩音は腕を俺の背中に回す。


「だからちがっ——」


 詩音が俺にぶら下がろうとして、そこで俺の腕は限界を迎えた。ベチャッ、と詩音の上に倒れ込む。


「ぐえっ」


 押しつぶされた詩音が短く苦悶の声を上げた。かろうじて肘で体重を支えて被害を軽減したけれど、俺の肘もじんじんと痛んでいる。


「先輩、なんで動かないように催眠をかけたのに倒れてくるんですか」


 俺の下から這い出した詩音が不満げにそう言った。


「催眠にかけられてても、できることとできないことがあるわ」

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