第69話 自制心催眠

「ふぅ〜〜」


 ローテーブルを挟んで座った先輩が、なにやら神妙な顔で長く息を吐いた。それから意を決したふうに顔を上げる。


「詩音」

「はい」

「……キス、してもいい?」

「……はい?キムチでもいい?」

「いやなんでこの距離で正面から言ってんのにその聞き間違いになるんだよ!!明らかにおかしいだろ!!」


 先輩が興奮して立ち上がる。私はそれを見ても、怪訝に眉間に皺を寄せていた。


「いや、突然そんなこと言われたら誰だって耳を疑いますよ。先輩、いつもキスする時にそんなこと言ってました?」

「いや、それは……」


 先輩が口籠もりながら目を逸らす。私は続けた。


「キスしたいんならいつもみたいに『詩音ちゃん、キスしたいにゃん。にゃんにゃん。すきすき』って言えばいいじゃないですか」

「いやどこの世界のいつもだよ!?そんなこと言ったこと無いぞ!?」

「嘘。R-18展開になってカクヨムに書かれてないところではいつも言ってるじゃないですか」

「検証のしようがない情報で読者に変なイメージを付けようとするな!!」


 息を吐ききるように絶叫した先輩は、一度大きく大きく息を吸いながら私の隣に正座で座り直す。


「それで、キスは——」

「先輩。『キスしてもいい?』っていう聞き方はおかしくないですか?いったい何からの許可を求めているんですか?世間ですか?法律ですか?何かが私たちがキスするのを禁止しましたか?」

「それは——」


 まくし立てる私に先輩がたじろぐ。私は先輩の目を射抜くように見つめて言った。


「先輩。私が話せるのは私のことだけですし、先輩が話せるのは先輩のことだけです。もう一度、先輩を主語にして言ってください」


 その言葉に、先輩は目を泳がせて躊躇いながらも言った。


「……俺は詩音とキスがしたいです」


 先輩の言葉を聞き届けると、私は目元を緩めた。


「そこまで言うんなら仕方がないですね。私は先輩の、可愛い彼女ですから」


 そう言って私は目をつぶる。首筋と背中に先輩の体温を、唇に先輩の熱い息を感じる。そして唇が音もなく重なって、ゆっくりと離れた。


「……先輩?」


 私は少し戸惑いながら目を開けた。改まってキスがしたいなんていうものだから、てっきりそれはそれは激しくキスされるのだと思っていたのだけれど、これでは誤用の方のフレンチキスだろう。


 ちなみにフレンチという言葉は、英語で「ふしだらな」という意味合いを持つ言葉であり、フレンチキスというのは本来情熱的なディープキスのことを指す。唇が触れ合うだけの軽いキスのことは、「バードキス」「ライトキス」などと呼ぶらしい。


 それはそれとして、私が目を開けると、先輩が背中を丸めて荒く息をしていた。まるで何かひどく興奮しているようにも見えた。


「先輩、大丈夫ですか?」

「大丈夫、まだ大丈夫」


 そう言って先輩は息を整えると、照れたような笑いを浮かべながら顔を上げた。私は先輩の考えが掴みきれずに首を傾げる。先輩は言う。


「いや、最近気づいたんだけど……俺ってライン超えると歯止めが効かなくなるとこあるでしょ?」

「最近気づいたんですか……まあ、自覚しただけ進歩なのかもしれませんが」


 私が呆れて言うと、先輩は頭をかいた。


「だからまあ、キスだけで踏みとどまれるように訓練がしたいんだ」

「なるほど。なるほど?」

「じゃあ、もう一回。今度はもう少し深く——」

「待ってください待ってください!」


 肩を抱いて顔を寄せようとする先輩を両腕で押し返す。


「どうかした?」

「いや、いま自分で『歯止めが効かなくなる』って言ったばっかじゃないですか!これで先輩のスイッチが入っちゃったらどうするんですか!?」

「ああ、それなら大丈夫」


 こともなげな先輩の言葉に私はまた首を傾げる。先輩は続けた。


「下半身に関する羞恥心を100倍にする催眠を自己暗示でかけてある。ズボンの下なんて見られたら、パニックでそれどころじゃなくなるはずだから」

「またなんて馬鹿な催眠を……」


 私は大きなため息をついた。それから私は少し眉を吊り上げて、両腕を広げた。


「分かりました。お付き合いしましょうとも。エッチな先輩のために」


 ——


「待って゛!もう出——あ゛あっ!」


 身体を痙攣させながら悶えて逃げようとする先輩に、裸の胸を押し付けるようにしてのしかかる。


「まだ出るじゃないですか。——嘘つきにはお仕置きしなきゃですね」


 そう言って私は先輩の唇を唇で塞いだ。舌をねじこむと先輩は砂漠でワインを見つけた旅人のように吸い付いて、喉を焼かれたように喘いだ。唇を離して身体を起こすと、唾液でできた淫靡な銀の糸が先輩の胸に垂れた。


「先輩が、先輩が悪いんですよ?いくら訓練のためとはいえ、1時間も2時間もキスされたら、じゃないですか」


 先輩の目は、度重なる快感と羞恥心からくるパニックで焦点が合わなくなっていた。


「や、やぁだ」


 退行したような語彙で首を振る先輩に、私は笑みを浮かべながら耳元で囁く。


「本当は、先輩もしたかったんですよね?じゃなかったら、こんなに興奮しないですよね?したくて、したくてしたくてたまらないのに、恥ずかしくてできない。だから、『無理矢理されたかった』んですよね?」


 先輩が目尻に涙を浮かべながら首を振る。


「催眠のせいで恥ずかしい。恥ずかしくてたまらない。恥ずかしくて興奮する。恥ずかしいのが気持ちいい。気持ちいいから、もっと恥ずかしくなりたい。もっともっと恥ずかしいことをして欲しい、って思ってたんですよね?」

「ちがっ」

「違うんなら、なんで私に組み敷かれてるんですか?先輩の方がずっと力が強いのに」


 耳を食べるようにして私がそう言うと、先輩は硬直した。


「まあ、口先だけでどれだけ嫌がっても無駄ですが。『嫌がる先輩を無理矢理——』って、すごく私の性癖だったみたいです。私がおさまるまで、もっと嫌がりながら、気持ちよくなっちゃってくださいね?」

「ああ゛あぁあ゛あぁあ!!」

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