第66話 ブラッシング催眠

 パァン


「……これはまた見事な身体拘束催眠ですね。全然動けない」


 手を叩く音でトランス状態から目覚めた後輩の詩音が言った。膝に手を置いてベッドに座っている。それから少し煽るように首を傾けて続ける。


「それで?身動きの取れない後輩の乳房を思うさま揉みしだくおつもりですか?先輩の変態」

「なんで思考がおっぱいに直結してるんだお前は」

「……だって、この間は胸を揉まれた方がまだマシなくらい酷い目に会いましたからね」

「それは……正直すまんかった」


 へそを曲げたように言う詩音に、申し訳なくなって目を逸らしながら答えた。あの時は、たしかにムキになってくすぐりすぎてしまった。


「今回はもうちょっとマシなはずだから。……あ、でも方向性としては近いのかな?」


 俺の言葉に、詩音が肩をビクッと震わせる。俺がスクールバッグの中をゴソゴソと探るのを詩音が警戒心のこもった目で見つめる。


「今日は、詩音の髪をとかそうと思います」

「……なんでです?」


 俺が取り出したものは、ブラシとくしだった。拍子抜けしたように訊ねる詩音に、俺は答える。


「いや、俺の好きな4コマラノベに主人公がヒロインの子たちの髪をとかすシーンがあってさ。実際にやってみたら気持ちいいのかなって」

「まず4コマラノベという物を初めて聞いたんですが、なんですかそれは」

「あるんだよそういう本が。……反応を見る限り、あんまり乗り気ではなさそうだな。催眠をかけておいて正解だったかな」


 俺がそういうと詩音は目を泳がせて言った。


「別に……嫌では、ないですよ?ただ、髪は女の命ですから、丁寧に扱ってください」

「ああ。心得てるよ」


 そう言って、俺は詩音の後ろに座った。とりあえず、右手に持ったブラシとくしは傍らに置く。


「まずは手櫛で軽くほぐしていくね。爪は切ってあるから大丈夫だと思うけど、痛かったら言ってね?」

「……先輩、なんか言い回しがいやらしくないですか?」


 眉をしかめるような声で詩音が言った。


「そう?なにせ初めてだから、力加減とか分からなくて」

「……わざとやってます?」

「はい?」


 詩音の言葉に俺が首を傾げると、詩音は大きなため息をついた。


「分かりました。ツッコむだけ私が馬鹿みたいなんでいいです。先輩はお好きなようにブラッシング童貞を卒業なさってください」

「ブフゥっ!?」


 拗ねたように詩音がそう言って俺は吹き出した。なるほど。バクバクする心臓を落ち着かせるために一度深く息をする。


「じゃ、じゃあ始めるね」


 気を取り直して右手の指先で詩音の頭に触れる。詩音がわずかに肩を縮めて小さくなる。指先が髪をかき分けて、熱い湿度を感じる。髪の流れに沿って指を滑らせる。よく手入れされているのか、指が引っかかることもなくショートカットの襟首までするりと抜ける。改めて見ると、俺の髪よりも細くて柔らかい気がする。


「痛くない?」

「大丈夫、です」


 俺が問いかけると、少し変なところで言葉を切りながら詩音は答えた。まあ、よし。この力加減なら平気なのか。両手で何度か繰り返しすいて、一通りとかしおわる。それから俺はベッドに置いておいたブラシを手に取った。


「じゃあ、次はクッションブラシね。ブラシの毛先が丸くなってて、髪をとかしながら頭皮もマッサージできるんだって」

「……それは先輩が普段使ってるブラシですか?」

「ううん。今日のために買った」

「……変なところに情熱を」


 ため息のような詩音の言葉を受け流して、俺はブラシを詩音の頭に当てる。頭皮に毛先が触れて、根本が少し沈み込むのを感じる。クッションがある程度力を吸収してくれるのだと思うのだけれど、頭皮を傷つけないように力を加減しないと。


「……ん」


 詩音が小さく声を漏らす。でも、ネガティブな響きではない。大丈夫みたいだ。つむじから、首に向かって血流を促すように。ゆっくりととかしていく。髪のまとまりが良くなって、艶が出てくる。


「最後はくしだよ」


 ブラシから持ち替えると、詩音は黙って小さく頷いた。毛束を左手で持ち上げながら、くしでとかす。


「はい、おしまい。お疲れ様」


 一通り髪をとかし終えて、俺は詩音の正面に膝をついて頭を撫でた。いつもより艶を増した髪から、手に滑らかな感触が返ってくる。詩音は黙ってうつむいている。思っていたよりも長くかかったから、詩音も疲れているのかもしれない。ずっと同じ姿勢だったのだし。頭に触れていた手を耳元に近づけて、催眠を解く指パッチンを鳴らした。


 パチン


 弾かれるような動きで、詩音は俺の首に腕を回して抱きついた。


「詩音?」

「……先輩。なんで先輩はいつもいつも私を幸せにすることばかり考えてるんですか?」


 泣き出してしまいそうな、切ないような声。言葉の意味が分からず固まっていると、耳に息と唇が触れる熱くて湿った感触がした。


「欲望のままに求めて貰えるなら言い訳もできるのに、こんな風に甘く溶かされたら、誤魔化しようがないじゃないですか」


 詩音がゼロ距離で言う。


「髪をとかすのも、頭を撫でるのももうダメです。……大好きが、抑えられなくなっちゃいます」


 そう言って詩音は、ベッドから溶けるように降りて、俺の膝の上に座って身体をぴったりと押しつけた。

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