第59話 匂いフェチ催眠

 パァン


「おはようございます。先輩」


 トランス状態から目を覚ました俺に、正面に座った詩音が小さく身体を揺らしながら声をかける。その時、突然襲ってきた衝動を抑えるために、俺は右手で左腕を強く握った。


「どうしたんですか、先輩。いつにも増して挙動不審ですよ?」

「あ、いや……」


 キョトンとした顔で詩音に問われて、俺は目を逸らす。詩音が小さく息をつく気配がする。


「先輩。いま先輩が何考えてるか当ててあげましょうか?」

「!?」


 詩音の言葉に、俺は目を丸くした。いや、だって、まさか、こんなこと——


「先輩は今、私の『匂い』を嗅ぎたくて嗅ぎたくて仕方がないんですよね?」

「なんで!?」


 言い当てられて、思わず叫びながら立ち上がる。そんな俺の様子を見て詩音はくすくすと笑った。


「なんでって、私がそういう催眠をかけたからに決まってるじゃないですか。先輩は私の催眠で、重度の匂いフェチになってるんです」


 その言葉に、現在の状態の説明がついて俺は腰を下ろした。この、必死で身体を押さえていないと耐えられない『詩音の匂いを嗅ぎたい』という衝動は、催眠で植え付けられたものだったのか。詩音は笑いながら続ける。


「いいですよ、先輩。思う存分嗅いでくれても」

「え!いいの!?」

「そりゃ、私がかけた催眠ですから。それにね、先輩。今日は先輩に気持ちよく嗅いでもらうために、私が厳選した特別なアロマシャンプーとボディソープで、とっても良い香りになってるんです。イランイランっていう花の香りで、甘くてとっても良い香りなんですよ。嗅ぎたくないですか?」


 詩音の言葉に心拍数が跳ね上がる。花に引き寄せられる蝶のように、無意識のうちにふらふらと近づいていってしまう。そんな俺に向けて、詩音が腕を広げた。動きに合わせて香りが微かに広がる。


「おいで。先輩」


 俺は詩音を抱きしめて、そのつむじに鼻をうずめた。鼻から一気に息を吸い込むと、目の前に花畑が広がった。頭の中が白くぱちぱちする。香水の何倍も濃いような花の匂いと、微かな皮脂の匂い、髪の匂い。2回、3回と繰り返し息を吸う。匂いを嗅いでいるだけで、快感中枢が強烈に刺激される。詩音がくすぐったそうな声を上げる。もっと匂いを嗅ぎたくて、鼻の位置を変える。耳の後ろ、首筋、腋。場所によって少しずつ匂いが違う。腋からは少しワイルドな匂いがする。胸にも顔を突っ込んで大きく息を吸い込む。花の香りと、女の子の甘い匂い。ミルクのような甘い匂い。


「先輩、わんちゃんみたいですね」


 そう言って詩音が頭を撫でる。もっと、もっと嗅ぎたい。お腹の匂いを嗅いで、太ももの間に頭を突っ込んで嗅ぐ。ここからはドキドキの匂いがする。


「もう、そんなところまで嗅ぐんですか?先輩のエッチ」


 さすがに少し恥ずかしそうに詩音が言った。俺は最初の詩音を抱きしめる体勢に戻って、一度大きく深呼吸した。全身が詩音の匂いで満たされて、気絶してしまいそうだった。詩音が俺の背中に腕を回して抱きしめ返す。それから小さく笑って言った。


「先輩、まんまと誘惑に負けて、私の罠にはまりましたね?」

「……罠?」


 唐突に詩音の口から出てきた物騒な言葉に、俺は思わず聞き返す。その間も鼻は詩音の匂いを嗅いでいる。


「知ってますか?イランイランという花の香りにはですね——」

「媚薬効果があるんだろ?」


 勝ち誇ったように話す詩音の言葉を引き取ると、詩音が固まった。


「……え?知ってたんですか?」

「この界隈では有名だからな」

「初めからそれを知った上で、こんなに嗅いでたんですか?」


 詩音のその疑問に、俺はもう一度鼻から大きく息を吸い込んだ。


「ま、待ってください!これ以上その香りを嗅いだら、歯止めが効かなくなりますよ!」

「それは、詩音も同じだろ?」

「……え?」


 戸惑った声を出す詩音に、耳たぶにキスしながら言った。


「詩音の方が、俺よりずっとたくさんこの匂いを嗅いでるだろ。発情して、もう我慢ができなくなってるんじゃないか?」

「そ、そんなこと……」

「気づいてない?詩音、さっきから何度も腰をぐっ、ぐって俺に押し付けてきてるよ?」

「それは、無意識で……!」

「じゃあ、今日はここまでにしておく?」


 詩音の反論に、俺は抱きしめる腕の力を緩めた。


「待っ!待ってください!もっと、もっとぎゅってして……して欲しいです」


 微かに上がった息で目にうっすら涙を浮かべながらそうねだる詩音は、心臓が止まってしまいそうなくらいに可愛かった。

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