第56話 大好き催眠

 では先輩、目を閉じて、深呼吸をしましょうか。吸って——。吐いて——。新鮮な空気が、お腹の中を対流する。吸って——。吐いて——。ゆったりとした呼吸を繰り返していると、身体から余計な力が抜けて、心が落ち着いてくる。吸って——。吐いて——。リラックスすると、私の言葉が素直に受け入れられるようになる。


 そろそろ、楽な呼吸に戻しましょうか。ふふっ。先輩、もうお顔が緩んでますよ。仕方ないですよね。私の誘導に従っていれば、とっても気持ちよくなれるって、先輩知ってますもんね。私の誘導に従うのは気持ちいい。気持ちがいいから、私の誘導に従うのは当たり前。


 では次は、身体からもっと力を抜いていきましょう。まずは、右腕に意識を集中して。右腕に力を、ぎゅーっ。力を抜いて、だらーん。右腕が重い。重くて、動かせない。次は、左腕に意識を集中してください。左腕に力を、ぎゅーっ。力を抜いて、だらーん。左腕から力が抜けると、左腕が重くなっていく。ずーんと、重い。重くて、動かせない。……先輩、上手ですね。いいこ、いいこ。次は、分かりますか?はい、脚です。両脚に力を、ぎゅーっ。力を抜いて、だらーん。脚が重い。重くて、鉛のよう。先輩、全身から力が抜けて、もう動けなくなっちゃいましたね。でも、大丈夫ですよ。ぜんぶ私にゆだねてください。


 リラックスして、気持ちいいですね。力が抜けた指先から、ぽかぽか、ぽかぽか温かくなっていく。温かさが、じんわりと広がっていく。指先から、肘、二の腕、肩。腕があったかくて、気持ちいい。脚先から、ふくらはぎ、膝、ふともも、温かさが広がって、気持ちいい。全身が温かい。ぽかぽか、ぽかぽか気持ちいい。全身が温かいと、なんだか火照って来ちゃいますよね。でも、おでこだけは涼しい。身体中に溜まっていた熱が、おでこからすーっと逃げていく。おでこがすーっと気持ちいい。熱と一緒に、意識も外に流れていく。すーっと、意識が遠くなる——


 ——先輩は、今、深いトランス状態にあります。身体の自由も、意識も、すべてを私にゆだねたとっても気持ちがいい状態。ぎゅーっ。えへへ、抱きついちゃいました。先輩。……ちゅ。先輩、とっても気持ちいいですね。理性のフィルターを通さずに、無意識に直接快感を注ぎ込まれて、先輩の全身を幸福感が包み込む。先輩……耳元でこうやって囁かれるの、気持ちいいですね。とっても気持ちがいいから、私がこうして先輩の耳元で囁いたことは、全部ほんとうになる。当たり前ですよね?


 先輩。先輩は私のことが、大好きになる。先輩は私のことが好き。好きで好きでたまらなくなる。世界で一番大好きになる。先輩は私のことが好き。大好き。……私も先輩のことが、大好きですよ。先輩、好き。大好き。……えへへ。もっかい、ちゅっ。先輩、先輩は私のことが大好き。


 んしょ。それじゃあ、催眠を解きますね?私が10数え下ろすと、先輩は催眠が解けて意識が戻ります。でも、暗示は残ったまま。いきますよ?10、9、8、7、6、5、4、3、2、1——ゼロ。


 パァン


 手を叩く音に俺は目を覚ました。


「お疲れ様です、先輩。少し伸びをしましょうか」


 後輩の詩音に言われて、俺はベッドから身体を起こしながら腕を伸ばした。催眠直後特有の、身体の重さのようなものがまだ残っている。これが抜けるとすっきりと身体に力が戻るのだけれど。


「それで詩音?今日はどういう催眠をかけたの?」


 俺と詩音は、少しエッチな催眠の研究に熱を上げている。今日も何かエッチな催眠をかけられているはずなのだけれど。俺の問いかけに詩音は少し目を丸くして意外そうに言った。


「あれ?そういう反応ですか?いつもと変わったところは?」

「……特にないな」


 両手で自分の身体をまさぐりながら俺は答えた。


「おかしいな……いつもより丁寧にかけたのに……」


 詩音が俯きながらつぶやく。俺が眉間にしわを寄せていると、詩音が突然何か閃いたように顔を上げた。


「はぁ!はぁはぁはぁ。——そういうことですか」


 それからにやにやした挑発的な笑みをこちらに向ける。


「な、なんだよ」

「いや〜。いままでで一番エッチな催眠をかけたのに、こんなことになるなんて。先輩の変態」

「なんなんだよ!?」


 本当になんなんだ。そう思っていると、いきなり詩音が勢いよく抱きついてきた。


「!?」

「そんなエッチな先輩には、大好きな後輩を思う存分ハグする権利を差し上げます。おめでとうございます」


 そう言いながら詩音が俺に頬擦りする。


「その前にどんな催眠をかけたのか説明しろ!それか催眠を解け!!」

「無駄ですよ。その催眠は、私には解けません」

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