第51話 裸婦催眠

「はあ〜〜」


 後輩の詩音が大きなため息を吐くのを聞きながら、俺はパレットでアクリルガッシュの水彩絵の具を混ぜて肌色を作る。


「美術の課題で裸婦画とか、うちの学校は正気ですか?」


 そう言いながら詩音がワイシャツをはらりと床に落とす。


「どうしても嫌なら皐月に頼もうか?」

「……先輩、冗談でも言っていいことと悪いことがありますよ?」


 抑揚のないその声に背筋に氷のように冷たいものが走り、思わず顔を上げた。目が合った詩音の顔からは『怒り』も『悲しみ』も、一切の感情を読み取ることができず、底の見えないクレバスを覗き込んだような感覚を覚えた。


(……ヤバい。これは、『ガチ』のやつだ)


「いや俺には詩音しかいないな!うん!詩音しか見えない!」


 慌てて取り繕う俺に、詩音はもう一度深いため息をついた。


「わかってるならいいんです。先輩みたいな先輩な先輩を相手にするのなんて、私くらいなんですからね」


 詩音の声にいつもの呆れたような色が混じって、詩音の機嫌が少し戻ったことが分かった。


「さあ、いつまでも裸で放置しないで、さっさと描いてください」


 生まれたままの姿になった詩音は、そう言ってぺたんとベッドに座った。俺はスケッチブックを膝に抱えて筆を取る。詩音は伏し目がちになりながら左腕で胸の大事なところを隠して、右手は所在なげに垂らしている。それはまるで彫刻か、あるいは一枚の絵画のようだった。


「……芸術的だな」

「馬鹿なこと言ってる暇があるなら筆を進めてください。こっちは恥ずかしいの我慢してるんですから」


 ツンと言った詩音の言葉に俺は吹き出した。


「何笑ってるんですか?」

「いや、詩音も恥ずかしがることがあるんだなって。いいことだよ。詩音はもう少し恥じらいを持った方がいい」

「なっ!?それじゃあまるで私が痴女みたいじゃないですか!!」

「恥ずかしがってる詩音が可愛くて好きってこと。ほら、動いたら絵が描けないだろ」


 真っ赤になって食ってかかろうとする詩音を制止する。不満げに頬を膨らませた詩音は元の姿に座り直した。俺は赤の絵の具を少し足す。


「描き終わったら覚悟してくださいよ……」


 物騒なことを言う詩音をスルーしながら、俺は筆を進めた。


 描き進めていると、詩音がくすぐったそうに小さく身体を震わせた。俺は首を傾げながらスケッチブックから顔を上げた。


「……こうもまじまじと見つめられると、なんか、先輩の視線で身体を撫で回されてるような感覚になります」


 拗ねたような口調で詩音が少し俯きながら言った。


「いま先輩がどこを見てるのかも、なんとなく分かりますよ?先輩のエッチ」


 その言葉に、思わずビクーンと背筋を伸ばしてそれから視線をそらした。詩音は俺の反応に満足したのか、少し口元を緩めて元の姿勢に戻った。いくらか速くなった心拍数を抱えながら、俺は画用紙に色を置いていく。


「できた!」


 1時間程度過ぎた後、俺はスケッチブックを掲げながら言った。


「やっと終わりましたか〜。もう身体ガチガチ……。学校の課題じゃなきゃ、こんなことに付き合わないんですからね」


 詩音は両手を上げてストレッチをしながら言った。感覚が麻痺したのか、裸なのにあまりに無防備な姿だった。


「まあ、そんな課題があるわけないんだけどね」


 パチン


 指パッチンの音に詩音が目を見開く。そりゃそうだ。高校生に裸婦画を課題で描かせる学校があるわけがない。


「抹消します!!!」


 真っ赤になった詩音が、我を忘れた様子で、裸であることも忘れた様子で飛びかかってきた。俺は慌ててスケッチブックを庇う。


「なんてこと言うんだ!せっかく上手くかけたのに!」

「ふざけないでください!そんなもの……」


 俺の背中越しにスケッチブックを覗き込んだ詩音から力が抜ける。俺が戸惑いながら振り返ると、詩音が聞いた。


「先輩、それは……人間を描いたんですか?」

「当たり前だろ!?!?」


 あまりに心外な質問に俺は食い気味に答えた。


「いや、でもそれ、まだ機械学習で自動生成した画像の方が人らしく見えるというか……」

「ひどい!!」


 抗議する俺から離れて詩音は毛布をかぶった。


「なんか、怒る気もなくなってしまいました。先輩、強く生きてください」

「慰めるな!上手く描けてるから!」

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