第43話 バーバー催眠
「ししょー!」
思い切り猫背になりながら歩いていた通学路で、後ろから呼びかけられて振り返る。俺をそう呼ぶやつは1人しかいない。
「これでも俺が分かるのか」
「分かるに決まってるじゃないですか。俺は師匠の弟子ですよ」
顔を上げて振り返ってそう訊ねると、一年の秋山は胸を張って自慢げに答えた。長身短髪の見るからにスポーツマンといった男子だ。その返答にくすぐったいような面映いような感覚と、一刻も早くこの場から消え去りたいという願いが生まれる。秋山は感心したように腕を組んで、うんうんと頷きながら言った。
「それは……新しい催眠術を習得するための修行ですね!ええ、分かるっすよ。分かるに決まってるじゃないですか」
その言葉に、俺は深くため息を吐いて肩を落とす。
「そうじゃ……ないんだ……」
* *
パァン
「先輩?今日はどんな催眠をかけたんですか?」
手を叩く音に意識が浮上し、私は目を開けた。ここは……いつもの私の部屋だ。目の前には私の恋人である先輩が座っていて、例のごとく何かエッチな催眠をかけていたはず。先輩は、小さく首を傾げて訊き返す。
「分からない?」
「ええ。とくに変わったことはないようですが」
催眠状態だから、何か違和感はある。でも、それが何なのかは分からない。私の返事を聞いた先輩は、よしといったふうに頷いた。
「じゃあ、ちゃんと催眠はかかってるな」
それから私の隣に座って、私に向かって小さく頭を下げた。
「先輩?」
「詩音、ちょっと頭なでてみて?」
「なんでですか?」
「いいから」
そう言いながら先輩が頭を突き出してくる。私は怪しみながらも、先輩の頭に軽く触れて、目を丸くする。
「先輩、これ気持ちいいですね」
ちくちくという心地よい刺激が手のひらをくすぐる。髪の毛のしなやかでほどよい弾力。思わず2周、3周と撫でまわす。
「先輩?どうしたんですか、黙り込んじゃって」
問いかけに答えない先輩を不審に思って見下ろすと、耳から蒸気を吹き出しそうなくらい真っ赤になっていた。
「その……俺も気持ち良いです」
消え入りそうな声で言う先輩に、私は思わず頬が緩んだ。先輩の頭を抱きかかえるようにして、胸元に引き寄せる。
「全く、こんな催眠を使ってまで私に撫でられたかったんですか?いいですよ。私の気が済むまで撫でてあげます」
今日の催眠は、『頭を撫でるのが気持ち良くなる催眠』だろう。私はそのまま、先輩をベッドに引きずり込むように倒れこむ。
「もう、それでいいや」
なぜか先輩はどこか投げやりなようにそう呟いた。
**
ふわふわと浮かぶような、重力が弱くなったような、そんな感覚。椅子に座って、体に力が入らなくて、でもそれも心地よくて、つまり俺は催眠のかかったトランス状態だった。目を閉じた俺の顔の前を、詩音の手が横切る気配がする。
「先輩、苦しくはないですか?」
首の周りを紐の様な物で結ばれた感触。でも、確かに苦しくはない。俺の沈黙を詩音は肯定と受け取ったようで、小さく頷いた後にはさみを開く気配がした。シャランと軽い金属音。首に巻かれたのは、散髪用のケープだった。
「では始めていきますね。先輩、随分と髪が伸びていますから。」
そう言うと詩音は毛束を少しつまみ上げて、ハサミで切った。髪が切れるプチプチとした音と、鋏の金属音が混ざり合って鼓膜を揺らす。耳元で発せられる鋭い音に、心拍数が少し上がる。
「先輩、きもちいいですか?顔、とろけちゃってますよ?」
確かにそうかもしれない。トランス状態で意識が半分止まっている分、無意識と感覚は敏感になっている。詩音の細い指が頭皮を撫でる感覚も、髪が切れる振動も、ハサミの音もゾクゾクと気持ちがいい。ASMR、というやつだろうか。
「ちょっとイメージを変えて、ツーブロックなんてどうでしょうか?」
後輩はハサミをバリカンに持ち替える。頭皮に冷たい金属が細かく振動しながら当たる。若干剣呑なものを感じながらも、俺はうっとりと口を半開きにあげていた。
「……先輩、少し肩を叩きますね。床屋さんのマッサージ、結構好きなんです。」
ひとしきり髪を切り終わり、俺の首からケープを取った後輩が言った。それから両手を合わせるようにして、夢見心地になっていた俺の肩を適度な強さで叩く。
「えっと、これ催眠は解かないといけないんですよね。……気持ちよかったですか?気持ちよかったですよね。……なら、先輩なら許してくれますよね?」
後輩がそう言った後に、10秒ちょっと妙な沈黙があった。小さく深呼吸をした後、後輩が囁く。
「先輩。みっつ数えると、催眠が解けますよ。3、2、1。ゼロ!」
パチン!耳元で指パッチンが響く。体に力が戻って、俺は大きく伸びをした。
「詩音、すごく気持ちよかったよ。ありがとう」
そう言いながら頭をかく。
「それで、鏡はどこ?どんな感じのヘアスタイルになっている?」
俺がそう聞くと、詩音は露骨に目を逸らした。
「えっと鏡なんてうちにありましたっけ?」
「無いわけないだろ。洗面所とか。というかスマホで見ればいいのか」
言っている間に気付いた俺は、ポケットからスマホを取り出してカメラを起動した。インカメラにした画面に、やってしまったという詩音の顔が映る。
「その……やればできると思ったんです」
「なんで美容師が免許制になってるか考えような!」
画面に映った俺の顔は、1言で言えば悲惨だった。髪の長さはバラバラだし、ツーブロックの高さも左右で揃っていない。
「本当、本当にすみません」
怒りたいところなのに後輩が涙声でへたり込むから気勢をそがれる。
「おっ、落ち着け」
「でも……ワンチャン動けば格好いいかなと思ったんですが、これはひどい」
「俺は平成ライダーじゃないからな?」
そう答える間に、詩音が両手で目を押さえる。
「すみません!私は取り返しのつかないことを!」
「だから落ち着けって!深呼吸しようか。吸って——吐いて——。指先から力が抜けていく——」
俺の催眠誘導に、後輩の首からコテンと力が抜ける。肩を抱いてゆっくりと床に寝かせて俺は深く深呼吸をした。そして、もう一度ケープを首に巻き直し、バリカンを握った。
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