第44話 痴女催眠
パァン
「先輩、先輩?」
いつのまにかすぐ目の前に立っていた後輩の詩音が、俺を見上げながら声をかけていた。
「ん?ああ、詩音。待った?」
「いえ、待ってはいませんよ。お疲れ様です、先輩」
駅前のコンコース。このご時世とはいえ休日ということもあって、それなりの賑わいを見せている。
「では、行きましょうか先輩。市立図書でしたよね」
踊るような足取りで詩音が振り返って歩き出す。キャメルのロングコートの裾が揺れる。
「嬉しそうだな」
俺がそういうと詩音はポケットに両手をつっこんだまま首だけ振り向く。
「そりゃ、久しぶりのデート回ですし。こんな連載ですから、滅多に外に出られませんもんね。サブタイトルは物騒ですが、楽しませてもらいますよ」
軽やかな微笑みを浮かべながら詩音がそう答えたが、俺は目のやりどころに困って明後日のほうに視線を向けた。その反応を見た詩音はわずかに眉を寄せて、小声で俺をなじった。
「ちょっと、なにキョドってるんですか。先輩がそんなだとこっちまで怪しまれちゃいますよ」
「そ、そうだな。すまん」
反射的に謝るが、立場が逆のような気もしないでは無い。というか、なんでこいつはこんな平気そうにしているんだ?平然と振る舞っているが、いま詩音のコートの下は……全裸。そう、古式ゆかしい痴女スタイルである。俺の返事を聞いた詩音は、また上機嫌な顔に戻って言った。
「はい。しゃんとしててください。……そうだ、先輩。手袋を脱いでください」
「手袋?なんで?」
俺が首を傾げると、詩音がさも当たり前かのように胸を張ってこたえる。
「私が手袋をしてないからです」
「なんだその理不尽な理由」
とはいうものの、とりあえず両手の手袋を外して詩音に差し出す。詩音には少し大きいと思うのだが。けれど、詩音は呆れたように首を横に振った。
「そっちじゃないです。手袋はポケットにでもしまっておいてください」
「なんでだよ。脱がされ損じゃねえか」
さすがに俺が眉を顰めていると、俺の左手を詩音が両手でぱしっと捕まえて、右手と共にコートのポケットの中に突っ込んだ。目を丸くする俺に詩音はイタズラっぽく笑う。
「冬が寒くってほんとによかったと思いませんか?」
早くなった脈に気づかれないように俺はまぜっかえす。
「その歌のふたり、最後には別れるんじゃなかったか?」
「そうでしたっけ?まあ、関係ないですけど」
すました顔で詩音はそういってまた歩き始めた。俺も隣を歩くけれど、この裏地一枚挟んだ先には詩音の生まれたままの姿があると考えると頭が勝手に――
「先輩」
「ひゃいっ!?」
気づくと詩音が不審そうな目で俺を見つめていて、俺は思わずひっくり返った声で返事をした。心でも読まれたんだろうか?俺の反応に詩音の眉間のしわはさらに深くなる。
「ど、どうかした?」
「いえ別に。ただ、先輩、女性と歩くのがお上手だなぁと思っただけです。さすが先輩。どこかで練習でもなさいましたか?」
不機嫌そうに口をとがらせながら詩音が言う。やきもち、だろうか?そんな様子を見ていると、胸に温かいものが広がるような感じがした。一度深く息をして、俺は答える。これにははっきりとした答えがあったから。
「別にうまくはない。ただ、そんなフリをされたら誰だって気を付けるだろ?」
「フリ、とは?」
その質問に、俺は何かを思い出すように斜め上を向きながら答えた。
「『ふたりで歩くには少しコツがいる。君の歩幅は狭い』……だろ?」
俺の言葉に詩音は目を丸くして、それからにやけるような笑みを漏らした。これは、さっき話した“その歌”の続きの歌詞だった。
「なるほどなるほど。殊勝な心掛けです」
そういって詩音は前に向き直った。ポケットの中で手を握る力が少しだけ強くなった。
駅からバスに乗れば図書館は割とすぐなのだけれど、詩音の希望もあって今日は徒歩にした。目的地にいるときだけじゃなくて、その間の道も大事に思えることが、何かとても大切なことのように思える。
「『雪景色催眠』なんてのもいいかもしれないな」
さっきの話から連想した思いつきを呟くと、詩音は小首を傾げてこっちを見た。俺は続ける。
「こう、見えるもの全部に雪が積もってるように見える催眠でさ。ほかの誰にも見えない、触れない雪のじゅうたんに二人だけの足跡を残すっていう。夢物語を叶えるのは催眠術の専売特許だからさ」
「それ、先輩には誰が催眠をかけるんですか?」
「詩音がかけてくれればいいだろ」
俺がそういうと詩音は考え込むようにうつむいた。
「先輩、無駄にロマンチストですね」
「無駄にとはなんだ」
「いえ、素敵だとは思いますがまたの機会にしましょう。先輩と同じものを見ることができるのも大事だと思うので」
そういった詩音は微笑んでいた。そっちだって十分ロマンチストだろうに。
「なんて話をしている間に、着きましたね。歩いてもそんなに遠くなかったというか」
詩音の言葉に足を止めて、目的地である市立図書館を見上げる。二階建ての、割と立派な図書館だ。詩音の目が光っているように見える。
「図書館では静かにな?」
笑いをこぼしながら俺はいった。
図書館の自動ドアをくぐり、閲覧席がある二階へ向かう。と、先に歩いていた詩音が階段でお尻を押さえながら振り返った。
「詩音?」
「のぞかないでくださいね?」
「ばっっ!!!!!」
詩音の言葉に顔が真っ赤になるのを感じる。くそ、やっと意識しなくなっていたのに。俺の反応に満足したのか、詩音は笑いを噛み殺しながら人差し指を口に当てていった。
「図書館では静かに、ですよね?」
文句を言いたいのはやまやまだったが(そもそもなんで痴女スタイルで図書館なんか来てるんだ)ぐっと飲みこんだ。
それから別々に分かれて読みたい本を探す。2冊ほど小説を見繕って閲覧席で読んでいると、隣に抱えるように本を持った詩音が座った。お互いに黙ったまま本を読み続ける。それなら一人で来ても変わらないように思えるかもしれないが、この沈黙さえ大事なもののように思えるのだ。
ふと本から目を上げると、詩音がまるで本にかぶりつくようにして読んでいた。口元に浮かぶ笑みは本当に楽しそうで、出会った日のことを思い出した。
「好きだなあ」
「先輩?なにか――」
俺の声に気づいた詩音が顔を上げると、真っ直ぐに俺と目が合った。それから俺の手元を見ると、しばらく俺が詩音を見つめていたらしいと気づいたのか真っ赤になって椅子を立った。
「な!!いきなりなんですか!!」
「いかん。声に出てたか」
俺は口を隠してごまかす。少し落ち着いた詩音が、うつむきながら座りなおす。
「仕返しのつもりですか。不意打ちなんて卑怯ですよ。先輩」
「別にそんなつもりじゃないんだけど……」
それからしばらく詩音は俺を警戒していたけれど、ほどなくしてまた本の世界に戻っていった。
正午。お腹もすいたということで、まだ読んでいない本は借りることにして図書館をあとにする。初めて入る、こじんまりとした喫茶店で対面に座る。
「ふう。先輩、いい本は見つかりましたか?」
詩音がそう言いコートのボタンに――
「馬鹿野郎!!」
思わず叫ぶと詩音がはっとしたように顔をあげる。
「すみません。その、若干窮屈で」
「窮屈なままでいろよ。どこまで開放するつもりだ」
まったくもって危なっかしい。俺が深くため息をつくと、詩音は頬杖をつきながら小悪魔めいた笑顔を浮かべた。
「先輩は、他の人に見られたら嫌ですか?」
「ぐっ」
その問いに俺は言葉に詰まる。いや、当然答えは一つに決まってるのだけれど。ためらう俺を、詩音がにやにやと見つめている。
「……そりゃ、いやに決まってるだろう」
さんざん迷ってから結局そうこたえた。
「へえ。へえへえへえへえ」
詩音は満足げな笑みでそういった。
「なんだよ」
「いえ。何でもありません。何食べましょうか?」
そういって詩音は何事もなかったかのようにメニューを開けた。俺はこぶしを握って震えた。
「先輩、午後は何しますか?」
注文の料理が概ねはけたタイミングで詩音が尋ねる。
「とくになにも考えてないな」
「じゃあ、適当に百均で何かおもちゃでも買って遊びますか」
「そんな手もあったか」
詩音のアドリブ性の高さに内心舌を巻く。それから残っていたオレンジジュースを飲み干して、伝票をつまみ上げながら席を立つ。
「じゃあ、次は百均だな」
「先輩、いきますよ~!」
詩音が選んだのはフリスビーだった。市立図書館にほど近い公園の芝生で詩音が大きく腕を振る。
「こい」
ある程度離れて向かい合う。詩音が大きく腕を引いてフリスビーを放った。右にそれたそれを、走って追いかけて空中でキャッチする。我ながら見事ではなかろうか。
「いくぞ!」
3歩助走をつけて投げ返す。こちらもやはり右にそれたが、詩音はそれを、棒立ちで見送った。唖然としていると詩音がこの距離でもわかるくらいいぶかしむような顔でこちらを向いた。
「先輩、なんで投げてるんですか?」
「なんでってなんだよ!!!!!」
こんな理不尽なことがあるだろうか。あきらかに正論な俺の言葉に、詩音は肩まで使って大きくため息をついた。それからゆっくりとフリスビーが落ちてるところまで歩いて行って、真横に立ってひざを曲げてフリスビーを拾い上げた。
「先輩。よく思い出してください。この状態で私が跳んだり、走ったり、あまつさえ転んだりしたらどうなると思いますか?」
両腕を広げた詩音を見て、ようやく詩音が言わんとしていることを理解した。が、だからといって納得できるというわけでもない。
「じゃあ、なんでフリスビー選んだんですか……」
肩を落として詩音のところまで歩いていく。
「だから、私が投げますんで先輩がキャッチしてください。先輩がそれを渡してくれたら、私がまた投げます」
「そうなるか……」
腹落ちしたわけではないが、妥協点なんだろうか。
「じゃあ、いきますよ~!」
もう一回詩音が振りかぶって、投げた。
「いや遠い遠い遠い!!!」
「もうちょっとゆっくり投げられない!?」
「曲げるな!曲げるな!」
「なんで戻ってくんだよ!」
「……ってかこれ犬の遊び方!!!」
何度か往復を繰り返したあと俺は叫んだ。
「あはははは!楽しい!」
堪えきれないとばかりにお腹を抱えた詩音が、大笑いしながらしりもちをついた。
「そりゃ、お前は、な……」
ひざに手を突いて俺は息を整える。そんな俺を見上げて、詩音が膝を抱える。
「でも、実は先輩も楽しかったんじゃないですか?」
「ぐっ」
上目遣いでそう尋ねられて俺は――
「というか座るな!!!見えるから!!!」
「先輩、ここで大丈夫です。ありがとうございました」
帰り道、日も傾いた交差点で詩音が言った。
「家まで送っても構わないんだがな」
「いえ、ここで。それで、先輩……」
詩音がうつむきながら意味深に言葉を切る。そして、コートの一番下のボタンをはずした。
「詩音!?!?こんなとこで――」
「先輩以外には見せませんから。だから、もっと近づいて?」
心臓が暴れる。お辞儀するように頭を下げる。詩音の息が触れる。詩音の細い白いゆびが、ボタンを下から外していく。一番上のボタンが外れ、ひそやかにコートが広げられる。現れたのは白い
――白い縦セーターと極ミニのチェックのスカートだった。
「……え?」
パチン!耳元で指パッチンがはじける。
「あはははは!先輩のバーーーカ!」
硬直する俺を置いて、詩音は笑いながらそう言ってコートを翻し脱兎のように駆けていった。
「はぁ~~~……」
街灯が点いて、ようやく金縛りがとけた俺は今日一番大きなため息をついた。つまり、きょう一日詩音の手のひらの上で踊らされていたということか。俺は大きく伸びをして、振り返って帰り道を歩き始めた。抑えきれない笑みを浮かべた口で、冬が寒くって本当によかったと口ずさみながら。君のいない道を。
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