第35話 ん?なんの催眠?

「先輩。今日は、なんだか先輩がはっきり見えますね。」

「あ、ああ」

「顔が真っ赤になってるのも、よくわかりますよ」


 そう言って30cmもない先で後輩の春野が笑う。からかわれても顔が赤くなるのを止められない。今、春野は『常識改変』で『他人と話す時は同じベッドに寝るもの』と思い込んでいるが、こんな呼吸も体温も感じられる距離で、冷静でいろという方が無理な話だ。


「あああっ!」


 我慢が限界になり、俺は勢いよくベッドから身体を起こす。


「先輩?突然どうしたんですか?」


 不思議そうに見つめる春野の耳元で雑に指パッチンをして暗示を解き、振り返りもせずに春野の部屋から飛び出す。ほんとうに、この後輩は何を考えているんだ。『私にエッチな催眠をかけてください』なんて。いくら先輩とはいえ俺だって思春期の男で、自制心にも限度があるというのに。


 ——そんな先輩の後ろ姿を、春野はにやにやと笑いながら見ていた


——


「春野の好きなもの?」


 俺の質問に、ひとつ下の後輩の皐月彩芽は怪訝そうに眉間にしわを寄せた。放課後、スマホで呼び出したフードコートで正面に座っている。


「それを私に聞くとか、何かのイヤミですか——って今の先輩に言ってもわからないのか」

「頼む。それだって奢っただろ?」


 頭を下げながら皐月の前にあるハンバーガーセットのトレイを指差す。皐月は、コオロギでも食べるような顔でポテトを摘んだ。この目つきの悪いこけしのような後輩と俺は犬猿の仲と言ってもいいような関係だったが、俺より春野に詳しい人間というと、こいつ以外に思い当たる人物がいなかった。


「先輩、それを聞いてどうするつもりですか?」

「それは、その……」


 俺は赤くなって目を逸らした。皐月の眉間のしわがさらに深くなる。


「先輩」

「なんだ?」

「キモいです」

「なんでっ!?」


 いきなり豪速球の罵倒が飛んでくるものだから思わず叫ぶ。皐月は大きなため息のあと、突然笑顔になって言った。


「先輩。春野が世界で2番目に好きなものはこの私です」


 そう言って皐月が胸を張る。


「有力な情報ありがとう。この場でお前をふん縛って春野の部屋に贈りつけてやろうか」

「やめてください。警察呼びますよ」


 静かに沸騰した俺に皐月は氷点下の対応をする。それからもう一度呆れたようにため息をついて、話し出した。


「春野は普通の女の子です。ラノベが好きですね。どちらかといえばキャラ萌えではなくストーリーが好きなタイプです。甘いものが好きです。カラオケで歌うのが好きです。アクセサリーなんかも人並みに」


 流れるような皐月の言葉に俺は舌を巻く。


「やっぱり、よく知ってるな」

「当たり前です。私を誰だと思ってるんですか?」


 皐月はそういうと、ひと呼吸入れて言った。


「プレゼントしたいのなら、何か思い出とつながるものがいいんじゃないですか?形に残るものがいいと思います。それがなんであれ」


 皐月の言葉に、波打っていた心が穏やかになるのを感じる。


「そうだな、ありがとう。皐月」

「べつに先輩に感謝されても嬉しくありません。春野に喜んで欲しいだけです」


 顔を背けてそういう皐月に、俺は苦笑いした。自分のトレイを持って立ち上がり、そこでふと気づいた。


「皐月?春野が世界で2番目に好きなのがお前なら、1番好きなのはなんなんだ?」


 それを聞いた皐月は今日一番嫌な顔をした。


「死んっでも教えません。とっとと消えてください」


 このレベルの暴言にも慣れたなと、俺は笑って背を向けた。


——


「師匠?」

「ん?ああ、自己訓練法の3段階目の暗示についてだったな」

「や、まだ2段目を説明されてないんですが……大丈夫ですか?」


 図書室で隣に座った秋山が怪訝そうにいう。指摘されて初めて段階を飛ばしていたことに気がついて、俺はため息をついた。


「すまん」

「かの……春野先輩のことで頭がいっぱいとか?」

「なぁっ!?」


 秋山の言葉に赤面しながらのけぞる。こいつ、馬鹿のくせにたまに妙に鋭いことがあるな。そんな俺を見た秋山は眉間に深いシワを寄せた。


「師匠、べつに顔赤くしても可愛くないっすよ」

「うっさい!可愛くしようとして赤くなってるわけあるか!」


 俺はそう噛みつくも、秋山に呆れた顔で流される。俺は息を整えると、額を手で押さえながら話す。


「その……春野が俺のことを好きなんじゃないかと思うんだけど」

「は?」


 秋山が短く疑問の声を漏らす。


「いや、だってそうじゃん。こんな頻繁にお互いの家に行き来してるしさ。普通じゃ考えられない距離感で接してくるし。催眠……の話は今はいいか。」

「先輩」

「ん?」

「キモいっす」

「なんで!?」


 驚きの罵倒に俺は飛び上がった。秋山は、やれやれとばかりに首を振る。


「先輩。いま『待ち』のスタンスとか選ぶと、後々恐ろしいことになると思いますよ」


 未来を見透かしたような発言に、俺は薄ら寒いものを感じる。


「恐ろしいことって……」


 息を飲む。ある可能性に気づいた。


「まさか、お前も春野のこと!?」

「いい加減にしないと殴るっすよ」


 秋山は笑った顔で拳を固めた。


「恐っ!い、一応師匠だぞ?尊敬とかないのか」

「今急速に減ってるところっすよ師匠」


 そう言って秋山は深いため息をついた。


「催眠って怖いっすね」

「……ん?今催眠の話してたか?」


——


「春野」

「先輩、どうかしましたか?最近、避けられているような気がしていたんですが」


 俺の部屋に来た春野が言う。


「そ!そんなことはない」

「そうでしょうか?今だって目を合わせてくれませんし」


 そういいながら春野が俺の顔を下から覗き込む。


「!?」

「先輩?」

「こ、これ!」


 俺は後ろ手に持っていたそれを差し出した。艶消しの黒の直方体の箱。春野が不思議そうに受け取る。


「開けてもいいですか?」

「ああ」


 春野が箱の蓋を取る。中に入っていたのはネックレスだった。細いシルバーのチェーンに円環のペンダントトップのついた、シンプルなデザインのネックレスだ。宝石などは使われていないが、高校生としては背伸びした買い物だと思う。


「これは?」

「振り子に見えないか?俺と春野の関係といえば、やっぱり催眠だと思って」

「——本当ですね。大事にします」


 そういいながら、春野はネックレスをつける。


「でも、急にどうしたんですか?誕生日ではないですよ?」

「その、あ……」


 口の中が乾く。手が震える。春野が俺をまっすぐに見つめている。


「春野」

「はい」

「俺は春野が好きだ。恋人になって欲しい」


 その言葉は、いざ口から出ると、幾度となく繰り返してきたかのように口になじんだ。


「先輩……うれしいです」


 春野がぎゅっと俺に抱きついて首に腕を回す。喜びで膝から力が抜けそうになる。


「前回は私が無理矢理言わせたようなもんでしたからね」


 ……え?


 パチン。耳元で指パッチンが響く。催眠が解ける。


「ああぁああぁああ!!」

「おはようございます先輩。あなたの恋人の、春野詩音です」

「お前ら全員グルだったのか!!」


——


「あの……俺、なんかやっちゃいました?」


 師匠の彼女さんにファミレスに呼び出されて、俺は思わず言った。師匠が教えてくれないタイプの催眠を教えてもらう条件で口裏合わせをしていたのだけれど。


「ううん!?その……聞きたいことがあって」


 そう言って春野先輩は言いづらそうに言った。


「その……先輩の、好きなものとか知らないかなって」


 俺は目を丸くして、天を仰いだ。この時ほどこんな師匠に師事していていいのだろうかと、疑問に思ったことはない。


「そりゃ……彼女さんじゃないっすかね…」


 俺は力なく答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る