第34話 敬語催眠

 パァンッ


「せーんぱい」


 ローテーブルの向こうから詩音が呼びかける。まだ若干もやがかかったような頭を振りながらも俺は返事をした。


「詩音、なんですか?」

「お、おおぅ」


 ただ返事をしただけなのに若干引いたようなリアクションが返ってきて、俺は眉間にしわを寄せた。


「まったく、今日はどんな催眠をかけたんですか?」

「分からないですか?」

「ええ、さっぱりです」

「読者のみなさんにはもう分かってると思いますけどね」

「そんなに何か違いますか……?」


 俺は首を傾げる。そんな俺の様子を見て、詩音は楽しげに頬杖をついた。


「まあまあ、いいじゃないですか。こんな先輩も私は好きですよ。カッコいいです」


 ……む。まあカッコいいと言われれば、悪い気はしないけれど。そんなことを考えていると、詩音がにやにやと笑いながらすり寄ってきた。


「ね、先輩。せっかくですし私のこと『好き』って言ってみてください」

「せっかくってなんですか」

「まあまあ、いいじゃないですか」


 詩音は笑い含みの声でそう言って、期待に満ちた目で俺を見上げる。


「む、むぐ」


 いや、『好き』くらい何度も、というかいつも言っているのだしそれ自体には抵抗は無いのだけど、改めてこういう振り方をされるとやりづらい。しかしまあ、これをやらないと引き下がらないだろうから、腹をくくって腹式呼吸で息を吸う。そして、見上げる詩音をまっすぐに見つめ返して言った。


「詩音。好きですよ」


 それを聞いた詩音は、驚いたように目を丸くした。いや、あなたが言えと言ったから言ったんですが?


「えへ、えへへ……」


 それから困ったように笑いながら目をそらした。


「なんですかその微妙な反応は。これじゃまるで俺が滑ったみたいじゃないですか」

「し、仕方ないじゃないですか。一応身構えてはいましたけど、この威力は想像以上というか……」


 モゴモゴと口ごもりながら詩音が言う。見ると、耳が真っ赤になっていた。つまりは……照れている?それを認識すると同時に、心臓がキュッと縮むのを感じた。こんな表情は初めてみた。俺は詩音の頭に手を添えて抱き寄せながら耳元で囁く。


「好きですよ。詩音、大好きです」

「わ、分かりました。もう大丈夫ですから」


 そう言って詩音が腕の中で縮こまる。


「いいえ。俺が言いたりません」

「え?」


 戸惑いの声を上げる詩音の耳に直接流し込むように囁き続ける。


「今の詩音、すごく可愛いですよ。大好きです」


 そう言いながら、左手で詩音の頭を撫でる。詩音がくすぐったそうに目を細めて身をよじる。


「先輩、んっ、今日は性格が変わる催眠なんてかけてませんよ?」

「ええ、俺の性格は変わってなんかいませんから。いつも通りです」

「嘘です。絶対いつもよりいじわるです」


 不満げにいう詩音の唇を唇で塞ぐ。熱い舌が絡み合う。離れた唇の間に淫らな細い銀の橋がかかる。詩音は切なげな表情で眉を下げていた。頬は赤く染まり、熱い息をしている。俺は右手を詩音の頬に添えるようにして、親指と人差し指で挟んで詩音の耳を揉んだ。


「詩音が悪いんですよ?俺は詩音の裏も表も隅から隅まで大好きなのに、こんなに美味しいところを今の今まで隠していたんですから。愛しい気持ちが抑えられなくなっても、仕方ないじゃないですか」

「先輩……だめです……。こんなの、とけちゃいますよぅ……」


 目尻にうっすらと涙を浮かべながら詩音が言う。俺は、詩音をひときわ強く抱き寄せた。


「ええ、とろとろに蕩けさせてあげますよ」


 ——


 パチン


 俺の腕の中から手を伸ばして、詩音が耳元で指パッチンをした。


「……『口調が敬語になる催眠』。なるほど」


 解けてみれば確かに大きな違いだ。


「でも、エッチな催眠ではなくない?」

「私としても、ちょっと味変くらいのつもりだったんですけどね。結果としてこうなっているわけですから」


 詩音は裸で俺の胸に顔をうずめながら少し怒ったように言った。


「それは、詩音が可愛すぎるのが悪い」

「まだそんなこと言ってるんですか。録音して素面の時に聞かせますよ」


 なんだその脅しは。俺は小さく笑って、詩音の耳元で囁いた。


「こんな催眠をかけるということは、男性の敬語にえっちさを感じているんですか?詩音さん」

「……ひっかきますよ」


 詩音は耳を真っ赤にしながら言った。

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