第28話 『勇気が出る催眠』のおしまい
昼休み、秋山は机に突っ伏していた。ダダダダダ、廊下を誰かがすごい勢いで走っているが、興味も惹かれない。ダーン!教室の引き戸が勢いよく開かれて壁にぶつかる。教室がざわつきだして、さすがに秋山も少し顔を上げた。上級生、2年生の女子が教室にずかずかと入ってきているとこだった。前髪をまっすぐ切り揃えた、目つきの悪い先輩だ。
「秋山ぁ!」
先輩が名指しで大声で呼ばわるので、さすがの秋山も無視は出来なかった。
「俺に何か用です——」
立ち上がろうとした秋山の頬を、先輩の、皐月彩芽の右ストレートが撃ち抜いた。バランスを崩し床に倒れる秋山。教室から悲鳴があがる。
「ってえな何すんだ!」
気炎を上げながら立ち上がった秋山の胸ぐらを皐月が掴み、一喝した。
「春野に何をした!!」
その言葉に秋山はひるみ、目を逸らしながら歯切れ悪く答える。
「知らないです」
「何をしたかと聞いている!」
「だから!わかんないんすよ!なんでこんなことになったのか!そんなもんこっちが聞きたいくらいっす!」
噛み付いた秋山の言葉に皐月は少し目を丸くして、小さく息を吐いた。それから、手を離しながら幾分か穏やかになった口調で言った。
「いい?私が聞いてるのは『あなたが何をしたのか』なの。『なぜこうなっているのか』は、考えなくていいよ。あなたが出来る限り詳しく教えてくれれば、それは私が教えてあげる」
その言葉に今度は秋山が目を丸くした。
「分かるんですか」
「たぶんね。私、あのふたりについては世界一詳しいから」
そう言って、皐月は微笑んだ。それを見た秋山は、こくりとうなずく。
「わかりました。出来る限りお話しします」
「ありがとう。——じゃあ、場所を移しましょうか。下級生の教室というのは居心地が悪いものだし」
あれだけ大騒ぎしておいていまさらそれを!?と秋山は眉間にしわを寄せて皐月を見つめた。
「先輩!待ってください」
踵を返そうとする皐月を、教室から誰かが呼び止めた。
「何か?」
皐月は穏やかな笑みを浮かべながら首を傾げる。秋山は、女性というのはここまで表情に振り幅があるのかと戦慄した。
「夏樹?」
机数個分離れたところから歩いてきたのは夏樹ひまわりだった。いつものように柔らかな微笑みを浮かべて、皐月の前に立って——
パシィィン
教室に皐月の左頬を打った平手打ちの音が響いた。
「夏樹!?!?」
「いってらっしゃい、秋山くん」
驚きの声を上げる秋山に、いつもの微笑みで夏樹は言った。
**
「……率直に言って、なんで私がって思ってる」
「はい」
図書室で、左頬を押さえながら皐月が言い、秋山がうなずく。
「でも、あなたも『なんで俺が』って思ってるんでしょ?正直に言うと」
「……はい」
秋山も、左頬をさすりながら言った。皐月は大きなため息をつく。
「わかった。これで相殺にしよ。それでおしまい」
たぶん、どちらも腹落ちしないところがあったが、ひとまず両者はうなずいた。一度皐月が深呼吸をし、状況の整理を始める。
「5月に先輩がかけてた催眠の話を、春野が聞いたら突然出て行って先輩がキレた、って話だったよね?」
「はい」
皐月は顎に手を当てて考え込む。
「図書室で春野たちを見たとき、春野が催眠にかかってるってどうしてわかったの?」
「そりゃわかりますよ。傍目からみて明らかに寝てましたから。向かい合わせに座りながら寝てるなんて、かなり変な状況なんで覚えてます」
「その時に春野がかかっていたのはどんな催眠だと思う?」
「へっ!?……眠くなる催眠、じゃないですか?」
「確かにそういう催眠も先輩は使えるけど……」
皐月は黙り込む。わざわざ眠くなる催眠を使って、寝ている相手に告白することに意味があるだろうか?それを、図書室で?何故図書室で?ふたりは去年の時点で互いの家を行き来していたはず。なにか重要なピースが抜けている。そこでふと、もう一つの疑問に皐月は行き当たった。
「そういえば、あなたはどうしてその時図書室に?全然キャラじゃないんだけど。部活は?」
「ナチュラルに失礼っすね先輩。その時は仮入部期間っすから、暇だったんすよ。自分、どの部活にするかは最初から決めてたんで」
(仮入部期間、催眠、図書室……)
皐月はガタッと椅子を立った。
「先輩?」
「あのバカ……!」
「わかったんすか!?」
見上げる秋山に皐月が言う。
「放課後、あなたの師匠をここに連れてきなさい。引きずってでも。私は、詩音を連れてくる」
**
「ん?」
下駄箱を覗き込んだのだが、靴がない。これはまたなんとも古典的な。
「靴ならここにあるっすよ。柊木先輩」
その声に顔を上げると、渡り廊下と校舎の境目のところに秋山が立っていた。俺は、これみよがしに大きなため息をつく。
「秋山、秋山。お前もうちょっと自分の立ち位置ってものをわきまえろよ」
そう言いながら、制服の内ポケットから音叉を抜き出す。まあ秋山ならこれも効くだろう。
「師匠を、引きずってでも連れてくるように言われてるんで」
「なあ秋山、秋山。おまえが靴を持ってる手は右……言われてる?誰に?」
秋山の言葉が引っかかって問いかけてしまう。
「誰?……そういや誰だっけ……。こけし先輩っす」
「皐月か……」
そう言って俺は額を押さえた。
「師匠、正直言って説明されてもよくわからなかったんですが、今回の件は誰も悪くないんだそうです」
その言葉に俺は眉毛を吊り上げる。
「悪くない?悪いのは俺だよ」
「いえ、悪くないんだそうです。こけし先輩、『あんたの師匠が強情に“俺が悪い”って言うかもしれないけど、悪くないから』って言ってました……その、自分はちょっと悪いかもしれないんですけど、その節は、本当にすみませんでした」
そう言って秋山が頭を下げる。
「よせ。あんなもんただのきっかけだよ。形あるものは壊れるし解けない暗示はないんだ」
その時、秋山のポケットから通知音が鳴った。
「こけし先輩っす……。彼女さん、図書室で待ってるそうっすよ。先輩が来るまで帰さないってこけし先輩言ってるっす」
**
「詩音」
「彩芽?」
放課後、詩音の机の横で声をかける。
「今日、どうして眼鏡なの?」
「あれ?言わなかったっけ?コンタクト忘れちゃったからだよ」
目を逸らしながら詩音が答える。私は小さく息を吐いて机に腰掛けた。
「秋山に何があったのか聞いたよ。何が起きたのかもわかった」
その言葉に詩音は目を丸くして、困ったように笑いながら頬をかいた。
「彩芽にはかくしごとできないな」
「『勇気が出る催眠』なんだよね」
「それは先輩から聞いたの?」
「まさか。それくらい分かるに決まってるでしょ?私を誰だと思ってるの」
大袈裟に胸を張ると詩音が小さく笑う。それから小さく息を吐いて、語り出した。
「これに気づいたのは……いつだったんだっけな。胸の奥から聞こえる『君が大好きです。君が、君だから大好きです』っていう、知らない誰かの声。これが『勇気が出る催眠』のほんとうだってことは、秋山くんの話を聞いて初めて気づいたんだけどね」
胸の前で手を握りながら詩音が言う。
「まるまる1年……いや、もっとか。何かあるたびに、私はこれに温められて、励まされて、支えられてた。先輩の想いに気づきもしないで」
「それを選んだのは先輩でしょ。おおかた、フられるのが怖かったんだと思うけど」
「ううん。先輩には、私にそれが必要だってわかったんだと思う。だって、あの時もし先輩に告白されてたら、きっと、ずっと好きでいてもらえるようにって頑張って、空回って、ボロボロになってたと思う。ほんとうに、すごい先輩だぁ」
天を仰ぎながら詩音がいう。
「詩音……」
「いまなら、彩芽がどうして私と先輩を別れさせようとしたのか分かる気がする。一緒にいる資格ないよね、こんなんじゃ」
「そんな!私は——」
思わず声が大きくなり、一度深呼吸する。
「詩音。確かに詩音が今言ったことは正しいのかもしれない。でもね——それになんの関係があるの?」
「え?」
「詩音が先輩と一緒にいるのは、詩音が先輩を好きだからなんでしょ?それ以外に、何か重要なことがあるの?」
「でも、先輩に合わせる顔がないよ……」
「顔を合わせなければ先輩は喜ぶの?」
「それは……」
口ごもる詩音に、私は視線の高さを合わせて、握り拳を包み込むように手を握る。
「詩音。私が先輩に詩音と別れるように言ったのは、あなたがもう一人でも立てるからなの。これがなくても、あなたは歩いていける。それなのに、こんな小さな言葉であなたを独り占めしようとする先輩が許せなかったの。嫉妬してたんだ、私」
「彩芽……」
「今度は私が言ってあげる。こんな、たった一つに頼らなくていいように——私はあなたが大好きです。あなたが、あなただから大好きです。それがどんなあなたであれ、私はあなたが大好きです」
詩音が眉を下げながら奥歯を噛み締める。
「きっと、先輩だって同じ気持ちのはずだよ——ううん、先輩には負けるか。私たちだけじゃない。ほかにも沢山のひとたちが、詩音を大好きだよ。だから、もうこれに支えられなくても、あなたは1人で立てるの」
「……うん」
私がゆっくりと手を離すと、詩音が両眼を掌で押さえながらうなずく。
「じゃあ、先輩に会いに行こうか。大丈夫、待ち合わせ場所は決めてあるから」
**
図書室に入ると確かにふたりが待っていた。秋山が、任務成功!とVサインをして、すごい目で皐月に睨まれる。手が届くくらいの距離に歩み寄ると、俺は勢いよく、深く頭を下げた。
「すまなかった!!」
皐月が嘆息する気配がする。
「あ、あの、なんで先輩が謝るんですか?」
「いつか綻びることを知っていながら、こんな中途半端な紛い物の暗示をかけることを選んだ俺の責任だ。そのせいで、詩音を傷つけた。気が済むのなら、俺をどうしてくれても構わない」
「そんな!先輩、顔を上げてください」
その言葉に、俺はゆっくり顔を上げた。詩音は涙ぐんでいた。
「あなたがくれたこれに、私がどれだけ救われたのか先輩は知らないんですね。先輩、あなたのおかげで、私は私になれたんです」
となりで皐月が安堵のため息をつく。
「皐月が教えてくれて知りました。私は、もう一人で立てます。ここまで来られたのも、先輩のこの言葉が支えてくれたおかげなんです」
胸の前で手を握りながら詩音が言う。
「先輩。私にはもうこれは要りません。だから——先輩にお返ししますね」
詩音がもう一歩近づく。握り拳を解いて、手のひらを俺の胸に当てる。体温が伝わる。俺を見上げる詩音は、生まれてから見た何よりも美しかった。
「先輩、私はあなたが大好きです」
「——あ、ああっ。ああっ!」
俺は両手で目を押さえた。感情が溢れ出す。
「……先輩、何してるんですか?」
そんな俺に、呆れたような詩音の声。
「……へ?」
思わず手を離して詩音を見る。
「こんなに盛り上がるシーンなんですから、抱きしめてキスするくらいが適切だと思うんですが」
鼻声のくせに詩音が軽口を叩く。
「はい!?いやでも……」
赤面し、狼狽える俺に詩音が詰め寄る。
「なんですか?いまさらキスくらいで恥ずかしがるなんてらしくないですね」
「だってほら……ふたりが見てるし!」
そう言って視線で示すと、詩音もふたりの方を向いて、赤面した。皐月と秋山は、無理矢理口いっぱいに砂糖を詰め込まれたような、呆れ果てた顔をしていた。
「あ、あはは……じゃあ、みんなには少し向こうを向いていてもらいましょう」
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