第11話 『勇気が出る催眠』のほんとう
図書室。隣の椅子に後輩が俺と向かい合うように座っている。目は半開きで、まるで夢を見ているようだ。まあ、ほとんど同じようなものだろう。
彼女は今、深いトランス状態に入っている。いわば心のファイアーウォールの一番奥、もっとも柔らかい部分が剥き出しになっている状態だ。
この状態で暗示をかければ、どんな命令にだって従わせることができるだろう。俺は立ち上がり、彼女の耳元に口を寄せた。
「これから言うことを、あなたは思い出せません。だれが言ったのかもわかりません。でも、絶対にわすれません」
それから、俺は一度息を吸って、吐いて、言った。
「私は君が大好きです」
それは、俺の思いつく限りの魔法の言葉だった。
『コミュニケーションがあんまり得意じゃないんです』
困ったように笑いながら君は言った。けれど、そんなことはない。そんなことはないはずだ。あんなに笑いながら話せるのに。話をした相手がどんな感情か思いやれるのに。コミュニケーションのための能力は充分に揃っている。君に足りないものは、コミュニケーション能力なんかじゃなかった。
「大好きです。愛していますよ」
後輩の頭を抱きながら繰り返す。『基本的信頼感』。君に足りないものはこれだろう。ただ存在することへの自信。世界に受け入れられているという確信。
本当なら、物心つく前に両親からもらった、生きているだけで肯定される経験を、生涯大事にしていくものだけれど、いまの時代、不思議と生きているだけで信頼感は目減りしていく。「価値がなきゃ存在していてはいけない」、なんて、通奏低音のように感じるようになっていく。
「私は君が大好きです。君が、君だから大好きです」
基礎的信頼感を取り戻すのは難しい。大人になってからもらえるのは、条件付きの肯定ばかりだ。勉強ができるから、顔が可愛いから、趣味が合うから……
僕があげられるのも、こんな紛い物だけだ。誰が言ったのかもわからない、無条件の肯定。それでも、君が歩くために少しでも力になれば。思わず笑いが漏れる。ほとんど下心だけで練習していた催眠術なのに、なんて使い方をしてるんだろうな?俺は。
「だから、君は君でいていいんですよ。私は君が大好きです」
ガタン、と音を立てて後輩の正面の椅子に座る。反射的に息を大きく吸う。そこで初めて息を吐くばかりで吸っていなかったことを自覚した。少し遅れて膝が震え出す。はは、慣れないことをしたからかな。術者が動揺していたら、かかる催眠術もかからない。俺は深呼吸して正面を向く。
「この暗示と記憶は、一番深いここに置いていきましょう。トランス状態から目が覚めても、ずっと残っています。でも、触れることはできません。」
そして俺は、後輩にかかった催眠を解く。
「10、9……意識が浮かんでいく——」
一瞬、『これから言うことをあなたは思い出せません』という暗示が解けたらどうなるだろうという考えが頭をよぎった。小さく息を吐き、頭をふる。そんな期待をしているようじゃだめだ。催眠なんかに頼らないで、正面から伝えられるようにならないと。
「——1……ゼロ!」
パチン。指パッチンの音で後輩が目を覚ました。
「あれ?先輩、私……」
後輩は辺りを見廻し、ふるふると頭を振った。
「これで勇気が出るおまじないがかかった。今までよりうまく人付き合いできるようになる、と思うんだけど」
後輩はわずかに首を傾げて言った。
「ありがとうございます、先輩」
そうだ。わからないならそれでいい。
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