第9話 end of hypnosis
「……」
自分の部屋の、ベッドの上で、俺は無言だった。一人でいることは得意だったはずなのに、一人で過ごす方法を忘れてしまったみたいだった。
——「彩芽」
いつもみたいに押しかけた恋人の部屋で、隣に座って身体を寄りかからせる。互いの体温を感じる。
「何?詩音」
「呼んでみただけ」
私がそう言うと彩芽は微笑んで、私の頭をなでた。心地よさに目を細める。付き合いはじめてから、ずいぶんと優しくなったみたいだ。ちょっと前ならはっきりイラついてみせただろうに。
——『エピソード記憶のすり替え』という現象を知っているだろうか?人間の脳は、現状との整合性を取るために、時に大胆な記憶の改変をする。記憶の中の『誰がその行動をしたのか』という情報を、丸ごと他の人間に入れ替えてしまうということが起こりうるのだ。
そうなれば自分が誰かを殴っていた記憶が、誰かが殴られるのを傍観していた記憶に、もっと言うなら自分が殴られていた記憶になることさえある。俺が最後に春野に施した催眠はそれだった。春野の記憶の中の俺がいた場所を、ぜんぶあの皐月とかいう後輩で塗りつぶした。彼女にはとんだとばっちりだが、それくらい責任をとってくれても良いだろう。ともかく、これで春野は一人で歩けるはずだ。
「……」
俺はベッドで背中を丸めた。春野が一人で歩けたとして、俺はどうすればいい?
「……詩音」
抑えきれず口からこぼれた名前。その時、ドアホンの音が聞こえた。重い身体を持ち上げる。いつもこの時間に他の家族はいない。階段を降り、ドアモニターを見た俺は叫びかけて両手で口を塞いだ。
「詩音……!」
駆け出したいのを抑えて、平然を装いながらドアを開ける。
「何か用?」
「あの……私の家にTBPの単行本が無くて、彩芽に『先輩に貸してるのかもしれない』って言われ来てみたんですが……先輩持ってますか?」
目を合わせないまま春野は言った。知っている。これは春野が本当に知らない相手を話す時の話し方だ。催眠が解けたとか、そういうわけではないらしい。かなり大掛かりな催眠のはずなんだが、俺の催眠術もずいぶん上達したということか。
「ああ、まだ返して無かったっけ。いいよ、入って」
そう言って俺は自然に後輩を迎え入れた。
「あった、これだね」
それは本棚の一等地にあった。後輩はうなずく。
「こっから先と、こっから先は俺が買ったはずだから、借りてたのはここからここだね。合ってる?」
後輩はうなずく。本棚の前を譲ると、後輩は自分が貸していた本を紙袋につめる。俺はその背中を見ていた。
「先輩ありがとうございます」
本を入れ終わった後輩は、重くなった紙袋を持って頭を下げた。それから、首を傾げる。
「あの、先輩。私が先輩に本を貸したことなんてありましたっけ?」
「……あったんだよ。ずいぶん前のことだから、覚えてないのも無理はない」
後輩はイマイチ納得がいかない様子だったが、もう一度頭を下げて俺に背中を向けた。そして、部屋から出るドアの前で立ち止まる。
「……先輩。この前私が言ったこと、覚えてますか?」
……この前、というのはいつのことだろうか。
「さあ?何かあったっけ?」
ここからでは後輩の表情を窺い知ることはできない。数十秒の沈黙の後、後輩は言った。
「『誰にどんな催眠をかけられても、私は先輩のことが大好きです』」
そう言って、後輩は振り向いた。振り向いた春野は、泣きながら微笑んでいた。
「私の勝ちですね。せんぱい」
「なん、で……暗示は解けてないはずなのに」
たじろぐ俺に、春野は世界で一番簡単なことを説明するように言った。
「分からないんですか?私が先輩を大好きだからです」
もう抑えられなかった。抑える必要もないだろう。俺は詩音を抱きしめた。それから泣いた。耳元で大声を上げて泣かれたらうるさいだろうから、代わりに強く強く抱きしめながら泣いた。
自分の部屋のベッドの上で俺は無言だった。けれど、今度は一人ではなかった。お互いの体温を感じながら、満ち足りた空気が流れていた。
「…………あっ!?」
突然春野が飛び起きるように上半身を起こした。胸は毛布で隠している。
「先輩、私だけじゃなくて彩芽にかけた催眠も解かないと!」
「……彩芽?ああ、皐月のことか。なんのこと?俺はあの子に催眠なんてかけてないよ?」
「……へっ?」
「あの子は頭が良さそうだったからな。察して話を合わせてくれるだろうと思ってたんだが……」
それを聞いた春野の顔色は赤くなったり青くなったり目まぐるしく変わった。
「あの、先輩……私、その、彩芽と」
その時、LINEの通知音が。
「あ、ちょうど皐月からだ。珍しいな」
春野が固まる。ロックを解除してLINEの内容を見る。書かれていたのはたった一言
『先輩、ごちそうさまでした』
「…………あの女狐やりやがった!!!!」
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