第8話 goodbye halcyon days

 妙なシチュエーションになったものだ。俺の部屋に、後輩と2人だけ。


「時間を割いていただき、ありがとうございます。先輩」


 ローテーブルを挟んで向かい合う相手は、後輩といっても春野ではなく、この間の皐月という後輩である。


「あ…何か飲む?」

「大丈夫です。すぐ済むと思いますので」


 背筋をピンと伸ばしたまま皐月はいった。とりつくしまもない、といった感じか。


「それで、春野抜きで話したい話ってのは何?」

「単刀直入に言わせてもらいます。春野と別れてください」


 ……まあ、なんとなくそんな話だろうなとは思っていた。この間、『催眠術をかけて欲しい』と訪ねてきたのも、真意はそのあたりにあったのだろう。


 俺はため息にならないよう、細く長く息を吐き出した。気持ちはわかる。友人が『恋人が催眠術師だ』なんて言ったら、誰だって心配になるだろう。俺だってそうだ。むしろいい友達を持ったなと褒めてやりたいくらいだ。


「皐月さん。詩音の友人として心配してくれてるのはすごくよくわかる。でも、たしかに俺は催眠術を使えるけど、詩音の意思を曲げたり、詩音を傷つけるような使い方はしない。したくない。それくらい詩音のことを、大切に思ってるんだ。約束する。根拠はないけど、信じて欲しい」


 小細工とか、人心操作とかそういったたぐいのことは一切抜きにすることにした。正面から、正直に、俺の彼女への思いを知ってもらえればそれでいい。


「“大切に思っている”たしかにそうかもしれないですね」


 皐月は仏頂面を崩さないまま俺の言葉を追認した。意図が読みきれず、無意識に眉間にしわが寄る。皐月は続けた。


「『勇気がでる催眠』の話、春野から聞きました」


 その言葉に、鎖骨から上が一気に赤くなるのを感じた。まさか、あの暗示が解けたのか。そんな俺をよそに皐月は続ける。


「大切な思い出として話してくれました。引っ込み思案だった春野のが今のあの子になったのは、あの出来事がきっかけだったみたいですね。それがどれだけ大きな影響を与えているのか、本人は気づいてない様子でしたが」


 その言葉に、俺は胸を撫で下ろす。よかった、思い出したとかではないみたいだ。それと同時に混乱した。この話を俺にして、皐月は何が言いたいのだろう。


「それが問題だと言ってるんです」


 皐月の無表情な声が感情を帯びる。


「あの子は知らず知らずのうちにアイデンティティの大部分をあなたに依拠してしまっている。そのせいで、あの子はあなたから離れられない。それは、愛ではなく依存です。あなただって、本当は気付いているんでしょう?気づいていながら、そのままにしている。あなたはあの子を手放したくないから。あなたはあの子が“大切”だから」


 まるで刃物をねじり込むような言葉だった。声が出せない。息ができない。


 俺が返事をしないでいると、皐月は話は終わりだとばかりに立ち上がって俺に背を向けた。


「あの子はもう1人で立てます。あの子を本当に大切に思っているなら、あの子のための選択ができるはずですよね?信じていますよ、先輩」


「それで、どうして私の前でうなだれているんです?」


 話をするために春野を呼ぶまでに、3日の時間を必要とした。この間の皐月と同じ場所に春野は座っている。


「皐月に図星でも突かれましたか?反論できなかったのがそんなにキツかったですか?」


 春野は苛立ちを露わに頭をかく。


「ああもうっ!彩芽も彩芽なら先輩も先輩ですよ!どうしてその場で反論しなかったんですか!『俺たちが付き合ってるのは、春野が俺のことを大好きだからだ』って!」

「それって、本当なのかな?」

「は?」


 春野が固まる。俺は身体を起こして、天を仰ぎながら続けた。


「詩音が『好き』だと思ってるその気持ちは、催眠に伴う心拍数変動やら、緊張の緩和やらをひっくるめて勘違いしてるものなんじゃないか?」


 言い終わる前に春野が俺の胸ぐらを掴んで立たせる。


「『好き』ですよ、正真正銘の『好き』ですよ!ふざけるな、私の想いを馬鹿にするのも大概にしろ!」


 春野が吠える。キスができそうな距離だと思った。


「ちょっと催眠が使えるだけで、人の心が操れるつもりですか。私は、自分で選んで先輩を好きになったんです!誰にどんな催眠をかけられようが、私は先輩が大好きですから!」

「そうか」


 春野の言葉を聞いて、俺は春野の頬に左手の指先をそえる。それから春野を正面に見据えて微笑んだ。微笑めて、いるだろうか。


「ありがとう、さようなら」


 左手の手のひらを右手が叩く。パァアンと乾いた音が部屋にこだました。


 ——道に立っていた。私は気がつくとよく知らない道に立っていた。


「私は何を……?」


 確か、喧嘩をしていたはずだ。怒っていた感覚がまだ横隔膜に残っている。勢いに任せて、私も結構ひどいことを言った、ような気がする。


「……謝らないと」


 私はポケットからスマホを取り出してLINEアプリを起動する。いつもは滅多に使わないけれど、今日は通話ボタンを押す。2コール目の呼び出し音で応答があった。


『春野?どうかした?』

「さっきはごめん。私、ちょっと熱くなってた」

『えっ?何?』


 スピーカーの向こうから困惑が伝わってくる。私は一度深呼吸をして、今つたえるべきことだけを言った。


「私が好きなのは彩芽だけだから」

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