トーヨコふぁんたじあん

DA☆

トーヨコふぁんたじあん

 会社を出たときから、しまった、と思っていた。今日は金曜日じゃないか。まったく、曜日を忘れてもやっていけるプログラマーなんて職にはなるもんじゃない。で、曜日を忘れていたって、帰りはたいがい終電だ。


 東急東横線の渋谷発元住吉行き最終電車は、零時四七分に出る。その日、僕が渋谷駅の地下ホームに降り立ったとき、そこは既に酔っ払いであふれていた。上京してきて何が驚いたといって、終電が満員になることにしくものはない。特に金曜ともなれば、それは朝のラッシュ並みになる。


 ずらりと居並ぶ背広の群を引き受けるため、銀色の車体に赤いラインの八両編成の列車が、ゆるゆるとホームに滑り込んできた。


 駅員に愚痴る若い会社員の姿もあったが、概して渋谷駅構内は混乱もなく静かだった。混乱のあるわけもない。東横線は、高級住宅街を貫く路線だけに、乗る客もどこか品がある。……この際上品というのは、酒を飲んでさえくだを巻く勇気のないことを示す。酔えば何もかも忘れてしまえる、という知識だけを頭に収めた連中が持つ性分なのだと、いつからか僕は知るともなく知っていた。


 幸運にも席に座れて、瞬間にぐっすりと寝込んでしまった者以外は、誰も彼もが、まだ憂さをため込んだままのようだった。そして押し黙ったまま、つり革や握り棒、見知らぬ誰かの肩にもたれて、焦点の合わぬまま、外や中吊り広告をぼんやりと見ていた。……疲れ切っていたから、多分僕もそのひとりだったろう。


 眠らぬ時計の針が、零時四七分を指した。何人かの駆け込み乗車で、またひとしきり人が混ざった後、扉が閉まり、列車は動き出した。




 列車はいやな混み方をしていた。どうせ混むならすし詰めの方が、自分の力で立たなくていいぶん楽だし、何より罪悪感がない。体は触れ合うのに押し合いはしない、という程度が、気も使うし体力も使うでいちばんありがたくない。


 駅に停車するたびに、少し降りて少し乗ってくる。降りる方がやや多いものの、結局人口密度はあまり変わらない。


 人の流れの中で、僕はいつの間にやら車両の中央に押し出されていた。いくらか空いていて、窓の外も見える場所だ。僕はつり革にもたれるようにつかまって、流れる夜景を見ながらぼんやりとしていた。


 次は…………次は…………何を言っているのか解らない車掌のアナウンス。惨めたらしいほど小さい声は、疲労をさらに濃くするだけの、ただのノイズだ。


 ともあれ僕は終点まで乗る。そこから先はタクシーだ。乗っていれば勝手に列車が僕を運んでくれる。車掌がいなくても、もしかしたら運転士がいなくたって、そうと決まっているのだ。


 だが、そのアナウンスだけは、はっきりと聞こえた。


 「次は、ふぁんたじあん……ふぁんたじあん。出口は左側です」


 体をねじって、扉上部の、路線表を確認してみた。さっき自由が丘駅を出たから、次は、田園調布のはずだが。客は誰ひとり騒ぐ様子もない。聞き違いだったろうか。


 見慣れた夜景が窓の外を通り過ぎる。何が変わることなく、列車はいつも通り坂を下り、地下駅の構内へ、蛍光灯がやけにまぶしく光っていて、……。


 「ふぁんたじあん」だった。


 列車は速度を落としながら、「ふぁんたじあん」駅のホームへ滑り込んでいった。


 ペンキがぼろぼろに剥げた、木製の駅名標には、丸ゴシックで「ふぁんたじあん」とだけ記されていた。ローマ字表記も、隣の駅の名も書いていなかった。


 東横線にこんな駅はない!


 席で寝ている誰かを押しのけて身を乗り出し、窓ごしの向こう側を見ると、あるべからざる駅は、やはり見たこともない風景を背負っていた。


 ホームは長く、八両編成の列車が止まれるほどでありながら、雨除けの屋根のある部分は、ほんの五メートルほどしかなかった。しかも砂利敷きで、その屋根の前だけ、申し訳程度にコンクリートで舗装されていた。ひとけは、まったくなかった。


 屋根の下には木製のベンチ、支える柱には、やはり「ふぁんたじあん」と書かれた細長い紺色のプレートが打ちつけられていた。駅舎はなく、すぐ横に、ホームを下りる階段。


 列車の中からの視線もまたホームを下りてゆくと、そこは、あぁ、「ふぁんたじあん」だった。


 どこまでいっても、人の住んでいそうな気配はなく、ホーム以外は、見渡す限り地平線まで続く一面の草原だった。すすきほどに背の高い草が、例外なくぽぅっと青白く光る花をつけていた。その花が夜風にそろってさわさわと揺れるさまは、いつかテレビで見た夜光虫のダンスを思い起こさせた。


 空は雲ひとつなく、やけに大きく見える満月だけが、あごを上げて見るほどの角度に浮かんでいた。その中空を、とんぼの群が、月光に羽を輝かせながら飛び回る。いや、あれはとんぼではなくかげろうだろうか?


 遠くに一本だけ、高い木があった。満月を背後にして、枝振りが黒々と空を裂いていた。葉は一枚もなく、代わりに枝の先に、鈴の形をした実のようなものをぶら下げていた。


 そうして見て取るうちに、列車は完全に停車した。とてもスムーズな停車だった。


 車内には、さっきから軽いどよめきが続いていた。これは僕だけの妄想などではないのだ。多くの客は、この「ふぁんたじあん」に気づいていた。が、誰も動いたり叫んだりはしなかった。


 僕の前の席で寝ていた太ったサラリーマンが、目を覚ました。そして体をねじって窓の外を見た。自分の降りる駅ではないと解って、また眠りにつく。


 そうなのだ。この列車に乗っているほぼ全員は、いま、我が家をめざしている。ここは、目的地ではない。だから。でも。


 扉が開いた。自動扉の動きが奇妙に遅く見えた。乗る客はなく、降りる客もなかった。


 と、ホーム近くの青白い花々が、わさ、と不自然に揺れた。


 階段から、息を切らせてホームに上がってきた者がいる。それはウサギだった。シルクハットをかぶり、タキシードを着、鼻眼鏡をかけた、人と同じ背たけのウサギ。


 ウサギは、たったったと二本足でホームを駆けて、僕のいるすぐ近くの扉の前に立った。乗り込んでくるかに見えて、扉近くの乗客がわずかに身を引いた。


 だが、ウサギは、人の言葉でこう言った。


 「なんだ、各停か」


 そして、タキシードのポケットから金色の懐中時計を取り出して、眺めた。


 「急行にはまだ時間があるな……慌てて損した」


 ウサギは身を翻して去っていった。僕は、また乗客の誰もが、みな茫然としてその後ろ姿を見送った。


 「降ります……」


 ウサギの姿が、また草原へと消えたとき、僕は、思わず叫んでいた。


 「降ります!!」


 人の壁をかき分け、車両の中央から、扉へ向かった。僕は降りなきゃいけない。ここで降りて、どこか、別の方向へ。別の列車で。


 だが、遅かった。停車時間はいつものようにほんのわずかだったのだ。人混みの中をのろのろと進む僕の目の前で、扉は無情に閉まった。なぜだかとてもくやしくて、力まかせに扉をばんと殴りつけた。憐憫と好奇の視線の集中を感じた。振り向くと、他の客はいっせいに僕から目をそらすのだった。


 遠くでSLの汽笛が聞こえたような気がした。


 列車はゆっくりと動き出した。闇を抜け、すぐに蛍光灯のやけにまぶしい田園調布駅ホームに、時刻表通りに滑り込んだ。その後は何事もなく、列車は多摩川を越え、やがて元住吉に到着した。




 タクシーに乗り込んだ後も、あのとき何が起きたのか、よく解らなかった。人の大勢いる列車の中で、大声で叫んだことの恥ずかしさばかりが残っていた。


 ただ、もしかすると、あれは何かのチャンスだったのではないのかと、そして、人が一世一代のチャンスを逃すときというのは、いつもあんな感じなのではないかと。そんな気がして、僕は、いつまでも、後ろ髪引かれる感覚を味わっていた。

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