潰える言葉とリップグロス

 ……この、声は。


 壊れかけた古いドアのように首を軋ませながら見上げた先にあったのは、振り払ったはずの二つの群青。不機嫌そうな色を海のような奥に僅かに滲ませて、腕を組んだ奴は扉の横の壁にもたれていた。

 サァッと音がしたのは、私の血の気が引いたのかそれとも心の温度が急低下したのか。


「……なんで、ここに」

「窓の外見てたら誰かさんにボールが直撃したのが見えたから」


 なんでそんな時に限ってこの男は本を読んでいない。持ち前の集中力を別ベクトルに発揮している。……見えたのだとしても、どうして、わざわざ。

 次の言葉が継げない私の格好をちらと眺めた奴は、ほんの少し眉をひそめて。


「怪我は」


 あまり聞いたことのない、淡々とした声音で紡ぐ。

 

「……気にしなくていい」

「そう」


 意識して作った突っぱねたような言い方に、自分でそうしたくせに胸が詰まる。

 今まではずっと、関わること自体を避けてきた。こうして表さなくても済むように。

 青の鏡に映る自分がどんな表情をしているのか見たくなくて目を伏せると、横髪にするりと熱が差し込まれた。痛くはない、けれど抗えない力で頬を支えられ上向かされる。


「っ、」


 目の前の群青は、どこか痛みを堪えるように揺れていた。


 反射的に後ずさろうとすると、ペットボトルを抱えていない方の手首が掴まれる。加減された拘束は血管を締め付けることなどないのに、それでも触れられたところがじわりと痺れた。

 腕を引いても、ほどけない。俯けない。観念した私はせめてもの抵抗に目線を逸らした。


「……な、に」

「今日逃したら今後もっと関わり潰されると思って」


 入学式以降やっと目が合ったから。

 初めて君の方から視線を遣ってくれたから。


 記憶よりほんの少しだけ低く掠れた声に、今度は私の瞳が揺れる。


「体調悪いとこにつけこむみたいだけど。……あからさまに避けられて逃げられて、こっちだって傷つく心くらい持ってるからね」


 だからこれでおあいこだということを言いたいのだろう、が。


 ――傷つく。


 明確に口にされた言葉に、身勝手にも胸が痛んだ。

 ちがう。傷つけたい訳じゃなかった。避けて逃げて関わらないでいればそのうち興味も失せるだろうと、関心などなくなるだろうと、ただそう思っていた。……願っていた。

 無関心になるのはとても難しいことだと自分で確かに知っていながら。


「……俺、ずっと待ってたよ」


 今週は来るか来週は来るかって。

 ちゃんと寂しくて、待ってた。


「またねって言ったのにそのまま何にも言わずに来なくなったから、途中から何か悪いことでもあったのかって思ってたけど。……連絡先も知らなかったから確かめようにも手段なかったし」

「……別に、……なにも、なかった」

「じゃあなんで来なくなったの」


 手首を掴む力が僅かに強まる。逃がすものかと、こっちを見ろとばかりに。


「……紫都」


 数年振りに呼ばれた名前に心臓がひどくざわめいて、思わず肩が跳ねた。

 あなたに話す必要ない。約束したわけじゃないのに。きらい。きらい。だいきらい――喉の奥で必死に貯めて練習していた言葉達が、すがるような声音に呆気なく潰れていく。どうした、さっき何度も念じた呪文じゃないか。後は声に載せるだけじゃないか。喉を震わせるだけじゃないか。


 ……でも。

 でも、これはこの男に対する呪文じゃないから。


 時間が流れるままに、音のない吐息だけが喉から漏れていく。

 どうするべきかもわからずに唇を噛んだ、その時だった。


 きぃん、と耳鳴りのような音がした。


「……?」


 きぃん、きぃん。ただ高いだけではない、テレビの砂嵐のようなざらつきを伴う不快音が短い周期で繰り返される。軽い頭痛を覚えて顔をしかめた私に奴が「紫都?」と軽く身を屈めると、音も一緒になって距離を近くした。この男が発生源だろうか。

 何事かと視線を前に向けた私は、視界に映った赤錆た光に目を瞠った。

 奴の首筋、シャツの襟でぎりぎり隠れるか隠れないかの場所。音の発生源はそこだ。きぃんと音が鳴る度に赤茶けた光の線が走り、組み合わさり、徐々に複雑な幾何学模様が描かれていく。直径で三センチほどの範囲に収まるようにして構築される紋様は、円で囲めば間違いなく――


 まずい、と直感が叫んだときには遅かった。


「――っ……!」


 幾何学模様の重なりを円が囲み、一際強い発光と共に陣に意匠が浮かぶ。転瞬頭の中に視覚情報とは全く異なる映像が流れ込んできて、私は咄嗟にきつく目を瞑った。


 廊下ベッド床カーテン脚シーツネイル陣スカート明暗――見たものと受け取ったもの、二重の情報にただでさえ寝不足の脳が大混乱を起こしている。足元が急激に崩落したような感覚に陥って、よろめいた身体がぐらりと傾いだ。

 肩が何かにぶつかって、膝がくずおれて――何より胸の熱さに意識が持っていかれる。

 刻まれた陣が燃えるように熱い。そこから全身に巡るものが熱い。熱い熱い熱い。苦痛はないのに身体中がごぼごぼと沸騰しているような。終わらない熱の、魔力の循環がぐるぐると。


 私は今どうなってるの。


 パニックになるまま、私はとにかく私の身体を支えるものに必死でしがみついた。私の名前を呼んでいる声。肩や背を受け止める、かたいもの。今や熱以外に感じる唯一。離すものかとしがみつく。

 途端にひんやりとしたものが流れ込んできて、沸き立つ魔力が鎮まっていく。


「……は、……っ……」


 荒波を侵食する心地好い凪。

 広がるほどに身体から力が抜けていって。私を呼ぶ声が段々と遠く聞こえなくなって。

 脳内を流れる映像が止まった瞬間、私は意識を手放した。


 ――ピンクのグロスを拭う指は、写された影を愛しげに撫でているようだった。




   ◇ ◆ ◇




 カーテンに囲われた薄暗い保健室のベッドの上に、は座っていた。

 昼休みも終わろうという頃、さっきまで話していた友人達から半ば逃げるようにして。

 彼女の欺瞞が剥がれそうになったから。先週新しい彼氏ができたばかりの友人からそっちはどうなのと根掘り葉掘りの流れ弾が飛んできて、うっかりボロが出そうになったから。


 その事実の悔しさに気が狂いそうになったから。


 間違いではない。友人達に伝えてきたことは間違いなんかではないのだ。

 。それは絶対だ。今も昔もこれからも変わらない普遍だ。


 それなのに。


 腿に爪を立てるようにして彼女はタータンチェックのスカートを握りしめる。

 脳裏に鮮やかに蘇る否定と拒絶の言葉。久しぶりに真正面から見ることのできた対の宝石は昔より更に美しい色彩になっていて、この瞳が熱を宿して自分を見つめるのだと信じて疑わなかったのに。きっと今も求めてやまないのだろうと思っていたのに。予想していた、いや確信さえしていた結末には至ることなく、返された言葉を彼女は理解することができなかった。

 だから彼女は自分の世界で解釈した。

 そして今も解釈する。


「ふふ、ふ……」


 教諭もどこかへ行って、彼女一人の空間。

 転がる自分の笑い声は、まさしく恋する少女の愛らしさを持っていた。


「もう、わかってないんだから」


 取り出したスマートフォンの中、彼女はギャラリーからいつもの一枚を引っ張り出す。


「私がいないとダメなんだから。勘違いしちゃって、かわいそう」


 少し、拡大をして。


「素直に私が好きって言ったらいいのに」


 穏やかな笑みを浮かべる写し画に、そっとキスをする。

 唇を離すとグロスが淡い音を演出する。液晶についた艶めくピンクを、彼女はその下の姿をなぞるようにして指先で拭った。ネイルに散らした彼の色彩のストーンがきらりと光を反射する。


「私がいないとダメなんだって、もっとちゃんとわからないと」


 言い聞かせるように、言い含めるように。彼女は笑みと共に囁いた。

 赤錆た光が彼女の胸に灯っていたことは、彼女でさえも、知らない。

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