魔女の人生初完徹、その後
魔術の大前提として、自分にはかけられない、というものがある。魔力を用いた創造を自分に施したところで魔力が自分に戻っていくだけなので、たとえかけても意味がないのだ。
……だから睡眠不足解消と疲労回復の魔術なんてあっても自分には使えないわけで。
丑の刻参り妨害から帰って呪い返し対策を講じ、結局一睡もできずに迎えたその日の授業は午前中だけでも散々だった。暗記物はことごとく頭に入ってこず、数学の小テストはケアレスミスを連発し、極めつけには英語の長文ワークでまったく別のページをやっていた。普段はそこそこ優等生として通っている分、あまりのダメっぷりに先生からは体調を心配され、いつもはあまり喋らない隣の席の子からも何かあったのかと言われた。……ちょっとそこの同級生の命の危機を救ってたんだ、なんて誰が言えよう。ただの寝不足だと言って笑っておいた。
「でもまあ、紫都がしんどそうにしてるとちょっとグッとくるものがあるよねー」
などと宣ったのは、中学からの友人である
視界が霞んできた私は目頭を揉み、まだ大量に残っている直しを見て溜め息を吐いた。
「何、グッとくるって……」
「んー、端的に言えば、色っぽい? 今の紫都が涙目上目遣いなんて使おうもんなら、私でもうっかり陥落しちゃうかも」
「安心して、使わないから」
「もったいない。せっかく色気が溢れてるんだから、女として修羅場の一つや二つ起こしてみたくないかねキミ。紫都なら伝家の宝刀『私のために争わないで!』が使える状況まで持っていけると私は思うのだよ」
「ぜっったいに抜かないその宝刀。むしろ全力で叩き折る。修羅場なんて起こすのも巻き込まれるのも真っ平ごめんなんだから、めんどくさい」
ただでさえ他人の色恋の末に発生した面倒事に現在進行形で巻き込まれているのに、ここで自分が修羅場など勃発させようものならあちこち収拾がつかなくなるのは目に見えている。自分のことで手一杯になってまずあの男は助けられないだろう。そもそも起こすような相手もいないけれど。
実感を込めて言った言葉に、燈花はころころ笑った。
「端から見物する分にはなかなか面白いんだけどねぇ。……まあ、冗談はさておいてさ。午後、大丈夫そう? 朝から変わらず顔色良くないけど」
「……多分。寝不足とちょっと疲れただけだから、帰って寝たら治るよ」
「保健室で一時間くらい休んできたらいいのに。次、ほとんどプリントやるだけでしょ?」
「うーん……そこまででもないから、大丈夫」
「そう……?」
むぅと唇を尖らせた燈花は、向かいから手を伸ばして頭をよしよししてきた。
「最近寝不足多いけど、どうしたの? 何かお悩みならおねーさんに話してごらん?」
「燈花、私より誕生日遅いでしょ」
「はいそこ気にしなーい」
「……心配してくれてありがと。大丈夫、ちょっと色々用事があって寝れてないだけだから」
「……手伝えることなら言ってね」
「うん、ありがと」
笑うと、「なんか笑みが儚いんだけど」と余計心配された。儚かっただろうか。
気を取り直して再度直しに取りかかろうとしたのだが、どうにも頭の芯が重怠くて、一度しっかり休めようと椅子の背もたれにもたれ掛かって遠くを見る。
寝不足で判断力が相当鈍っていたのだろう。ぼんやりと、視界はほぼ無意識のうちにあの男を映していた。
マスコミの囲み取材もかくやとばかりに昼食を誘っていた肉食さん達は既に大幅撤退しており、めげない心のハンター数名のみが根気強く話しかけ続けていた。高校生であの狩猟精神は素直にすごいと思う。下手を打って第二第三の『怨嗟の魔女』が誕生してしまわないかと若干不安ではあるが。
話しかけられているあの男はたまに適当な相槌を打ちつつ、視線は手元の文庫本に固定されている。こと読書に関しては素晴らしい集中力の持ち主なので、多分九割九分聞いていないだろう。……相変わらず、その辺は同類だ。
つい過去を追憶しそうになったところではっとなった私は、何をしているのかと視線を小テストに戻そうとした、の、だが。
ふと、あの男が顔を上げる。何かを探すように群青の瞳が揺れて、やがて間違えようもなく私の位置で止まった。しまったと思ったときにはもう遅く、驚きに固まる私はあの男のラピスラズリの双眸にひたと見つめられていて。
――やらかした。
「……ちょっと眠気覚ましに飲み物買ってくる。何かいる?」
「あ、いつものカフェオレで。道中ぶっ倒れたりしないでね」
「うん」
財布を持って立ち上がった私は足早に教室を出た。休み時間でざわつく廊下、苛立ちも顕な足音を誰も気にしないのがありがたい。
やらかした。後悔先に立たずなんて、言われるまでもなく知っていたのにうっかりしてしまった。なるべく関わるまいと心がけていたのに、こっちから視線を投げてしまうなんて。自分の迂闊さが憎い。なんでそうしたかもわからないのが何より嫌だ。
大嫌いだ、あんな男。魔女らしくそんな呪文を念じて、脳裏に焼き付いてしまった二つの群青を必死に払う。
ひたすらに歩いて歩いて歩いて、気づけば一階、目的の自動販売機の前まで辿り着いていた。
「……何買おう」
正直な話眠気覚ましというのはただの口実、教室から逃げたかっただけなので特に欲しいものなどなかった。かといって何も買わなかったら流石に変だろう。先に燈花に依頼されたカフェオレを買い、初夏で入れ替えがあったらしく見慣れないラインナップを眺める。悩んだ末、無糖のアイスティーという無難なところに落ち着いた。透き通る赤のラベルが見た目にも涼やかだ。
急ぎ足で来たため喉が乾いていた私は、行儀が悪いが歩きながらペットボトルのキャップを開けてアイスティーを流し込んだ。適度に苦くて頭がすっきりする。カフェインも含まれているし、これなら何とか午後からの授業を乗りきれるかもしれない。そう信じたい。
夜中の雨などどこへやら、快晴の空は壁のない渡り廊下の空気を緩めてひどく眠気を誘う。重い瞼を擦る私は紅茶を飲んだところでやっぱり注意が散漫だったようで。
「――危ない!」
「え、――っ!」
遥か彼方から突然吹っ飛んできたサッカーボールを防ぐことができなかった。
予想以上の衝撃にバランスを崩して膝を突く。痛い。モロに肩に当たったみたいだ。おまけにその拍子に紅茶のペットボトルが手から滑って中身をシャツにぶちまけた。
……もう散々だ。水ならまだしも紅茶はシミになるのに。
「ごめん、大丈夫!?」
肩を押さえて呆然となる私に駆け寄ってきたのは、どうやらボールを蹴った張本人のようだ。朧気ながら顔を見た記憶があるので多分同学年だと思う。爽やかで女子人気の一定数ありそうな見た目はなるほどスポーツ好青年らしいが、頼むから中庭ではボールをかっ飛ばさないでいただきたい。この調子だといつか更なる惨事が起こりそうだ。恥ずかしさやら痛みやらを堪えて見上げると、彼が何故だか一瞬目を丸くした気がした。
伸べられた手を借り、支えられながら立ち上がる。なんか両膝がじんじんするなと思ったら、突いたときに擦りむいたらしく血が出ていた。泣きっ面に蜂とはこの事か。赤く染まった膝を見て、スポーツ好青年は対照的に青くなった。
「うわ、膝も……ほんとごめん、まさか人いると思わなくて……」
「いや、私もぼーっとしてたし。大丈夫だよこのくらい
「と、とにかく保健室行こう! 肩も手当てしてもらわないと」
「うん」
転がったペットボトルを拾って、幸いにも近くにある保健室へ行く。彼は私を送り届けると「ジャージ取ってくる!」と言って駆けていった。
保健室の先生は紅茶染めのシャツを着た私に何があったのかと驚いていたが、事情を話すと納得して膝と肩の手当てをしてくれた。肩は自分で全貌を見てはいないが、湿布を貼ってくれた先生に曰くボールの曲線が二の腕にかけてくっきりついていたとのこと。帰って鏡で見るのが怖い。
そうこうしているうちにボールを蹴った彼が戻ってきて、私にジャージの上を渡した。最初は申し訳ないと断ろうとしたのだが、生憎今日は体育がない日で他に着替えがなかったため結局借りることになった。シャツは先生が一度洗濯しておいてくれるとのことだったのでご厚意に甘え、無事だったリボンをスカートのポケットに突っ込んでジャージを着る。ぶかぶかだが袖を折れば着られるだろう。
更衣室代わりに使わせてもらったベッドのカーテンを開けると、彼は律儀に待っていてくれた。しかも果てしなく申し訳なさそうな表情で。被害は受けたがこうもしょげられるといたたまれないものがあるので、私は小さく笑って見せた。
「ごめんなさい、ジャージ借りちゃって。なるべく早く洗って返すね」
「あ、気にしないで。それより怪我は大丈夫?」
「そんなにひどくないよ。ただ、今度からはちゃんと人がいるか確認してから蹴ってね」
「はい……ごめんなさい」
「私も不注意だったからもういいよ」
肩を落とす彼はどことなく柴犬みたいで、『夢見の魔女』になったときに初めて見た夢出てきたタロを思い出してついくすくすと笑ってしまった。ややあって彼もつられてはにかむ。少女漫画のヒーローの典型例かと思うほど絵に描いたような好青年だ。あの男とは全然違う。
ジャージを返すとき用に軽く自己紹介を交わした後、中庭に戻るべく一歩踏み出した彼は思い出したように私に新品の紅茶のペットボトルを渡した。
「忘れてた。これ、さっきこぼしてたから……紅茶で合ってるよね?」
「ああ、いいのに。わざわざありがとう」
「廊下は俺とサッカーやってた奴らが拭いたから、大丈夫だからね」
「え、ありがとう。なんか逆に申し訳ないね」
「いやいや、怪我させちゃったんだしこれくらいは!」
ぶんぶん手を振る彼にもう一度お礼を言うと、彼は照れ臭そうに笑って去っていった。どこまでも好青年である。
なんだかどっと疲れたが、まあ、いいか。
負傷した割にはほっこりした気分になった私は、先生にシャツをお願いしてからペットボトルのキャップを開けた。一口飲んでみると、甘い。改めてラベルを見ると黄色の地に紅茶とだけ書いてある。ペットボトルの紅茶といえば普通は加糖だ、私が無糖を飲んでいたことにまで気付けという方が無理な話だろう。ちょっぴり詰めが甘いところがまた好青年らしくてむしろいいと思うのは私だけだろうか。
一人で勝手に微笑ましくなりながら、守りきった燈花のカフェオレを手にして保健室を後にした私は。
「――何だかんだ言って使ってるくせに、涙目上目遣い」
後ろ手に扉を閉めた瞬間聞こえた、耳慣れていた声に、固まった。
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