はじまりは犬のリード

 望むものはただ一つ。平穏な高校生活、それだけ。

 仲のいい友達と一緒にご飯を食べて、それなりに真面目に勉強して、帰ってまったり本を読む。この波風立たぬ安寧が続いてくれますように。入学式で驚愕と共に、そして今年度初頭に死んだ魚のような目をしながら改めて抱いた切なる願いは、極力接点を排除するという私の努力もありほんの二ヶ月前まではある程度叶えられていた。濱名はまな紫都しづという名のごくごく普通の女子高生として、穏やかに生きていたのだ。

 

予想から遥かに吹っ飛んだ場所で願いが砕け散ったのは、先々月のある日のこと。


 その日も普段と変わらず一日を終え、金曜日ということで私は少し夜更かしをしていた。日付が変わって少しすると瞼が重くなってきたので読んでいた新刊に栞を挟み、ベッドに潜り込む。切りのいいところまで読めたと満ち足りた気持ちで目を閉じた私は、すぐに眠りに落ちた。


 しばらくすると、滅多にないことに夢を見た。


 今にも陽が沈みそうな夕方、住宅と住宅の間の見知らぬ路地にぺたんと座り込むパジャマ姿の私。手には見覚えのない懐中時計があって、微かな針の音を奏でながら時を刻んでいた。ガラスに覆われた文字盤は星月夜に蝶が舞うといった体で緻密な装飾が施されており、紫の地に金の数字、織り混ぜられた白金が繊細に美しい。

 なぜか直感で夢だとわかって、けれど五感が捉える質感も情景も何もかもがあまりに細かくリアルすぎて、私はしばし目を瞬いていた。

 やがて路地の先から初老の男性がやって来る。道に座り込んでいる私を気にも留めず、彼は赤いリードで繋がれた柴犬に語りかける。タロや、あそこのお家にお前の子供がいるんだよ。先週生まれたばかりだそうだ。お嫁さんも元気だよ。私も会うのが楽しみだ、と。タロと呼ばれた柴犬は飼い主の言葉を解したのか何なのか、急にやたらと元気になって駆け出した。赤いリードが伸びきって、飼い主はこらこらと叱りながらも走ってついて行く。

 なんてのどかな、と私が一人和んでいると、手にしていた懐中時計から突然音楽が流れてきた。

 音色はオルゴール。聞いたことがあるようなないような、どことなく切なく物悲しい旋律。今の状況に絶妙に合わない曲がいきなり流れたことに、私はふと嫌な予感を覚えた。具体的に何とは言えない、しかし確かな違和感と不安。何か、よくないことが起きるような。


 ――結果としてその予感は的中することになる。


 ハイテンションで駆けていくタロを目で追っていると、反対方向から歩いてくる人物が見えた。夕陽の影では深海のような深い色彩になる、対の群青。昨日も見た今日も見た、なんなら平日は否応なしに毎日視界に入ってくるあの男が現れたことに衝撃を受けた私は「え」と声を上げたが、誰も彼も私を見もしない。まるで私の存在などないかのように。

 鳴りやまない旋律。懐中時計を握りしめたまま呆然としていると、靴紐がほどけたらしくあの男が不意にしゃがみこんだ。タロが直進のまま爆走しているのだがぶつかりはしないだろうか――と思った次の瞬間。事態は正面衝突も裸足で逃げ出すような場外ホームランを決めてしまった。

 愛しい妻と我が子に会うため夢中になって走っていたタロは、最短ルートに障害物があることに気づき、瞬時の判断で更なる近道へと進んだのだ。もう真横まで来ていた妻の家の垣根を飛び越えるという荒業を以てして。

 悪いことにピンと張ったリードは垣根の高さの都合上丁度あの男の顎の位置に行き、ラリアットのごとき勢いで奴の首を弾いた。目を真ん丸にする私の前で、バランスを崩したあの男は手と意識が靴紐に行っていたためなのか咄嗟の受け身をとることもできずモロにアスファルトに後頭部を打ち、血を流して動かなくなった。


 物悲しい音が、鳴り終わる。午後五時二十八分、臨終だった。


 訪れた静寂に悲鳴を上げるでもなく泣いて駆け出すでもなく、私は変わらない姿勢で、あの男が死んだと感じた。死んだとわかった。狼狽する飼い主の背を眺めて、うそ、と吐息が漏れた気がする。

 大嫌いな男が死んだ。そこに喜びなどなく、込み上げてきたのは自分でも驚くほどの寂寥。思い出の泡が弾けていくような脆く繊細なそれが私の胸を支配する――よりも前に、絶大な力を持って私の思考回路を染め上げたのは。


「……え、何あの変な死に方……」


 呟くと同時に目が覚めた。黒と紫が融け合う闇夜にぼんやりと見えるのは自室の天井で、やはり夢だったのだと安堵の息を吐く。

 一体どうしてこんな夢を見たのだろう。情報量の多さに戸惑ったのも束の間、私は左手が捉える硬質な感触に目を瞠った。

 身を起こして見た左手には、夢の中で握っていた懐中時計があった。

 規則正しく動いていた針は夢であの男が死んだ時刻で止まっており、蓋のガラスには夢にはなかったはずの淡く輝く金色の文字が流麗な筆記体で綴られていた。


『on April 17th The wisteria butterfly can flap for the cursed azure-night.』

 ――四月十七日。紫の蝶は呪われし紺碧の騎士がために羽ばたきうる。


 ちょこちょこ単語がわからなくて検索したらこういう意味らしい。今日は四月の十五日だから、十七日は明後日。続く文章の紺碧の騎士とは、色彩で連想できる人間が一人――あの男しかいない。すると紫の蝶とは……紫都、私のことか。


「どういうこと……?」


 私が、呪われたあの男のために、行動を起こしうる。解釈としてはこれが適当だろうか。

 ――まさかそんなこと。

 呪いなんて現実にあるわけがないし、そもそも私があの男のためになど行動するはずがない。

 そう思うのに、夢から持ち帰ってきたかのような懐中時計が私の思考を絡め取って放さない。夢の中で妙な死に方をしたあの男。握っていた懐中時計。未来を指し示し止まった針。蝶の羽ばたき。脳内の記憶を総動員して全ての要素に無理矢理繋がった糸は、最近ファンタジー物を読みすぎたせいかあまりに現実離れしていて。


「……予知夢……?」


 唇からこぼれた言葉が、全ての始まりだった。

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