こちらなんともおっそろしい黒毛和牛です

 安堵の溜め息を終え、私は羽織っているパーカーのポケットを探った。親しみのある薄く硬質なものにくっついて、ぷにんとした冷たい『もの』の存在を指先に感じる。なんとなくポケットの中でひとしきりぷにぷにしてから、それらを二つまとめて取り出す。

 何かと言えば皆さんご存じスマートフォンと――小さな、クラゲである。

 体調十センチにも満たないそのクラゲは透き通った水色をしていて、私にぷにぷに弄ばれたからか笠の一部(おそらくは頬の部分)が紅潮している。くてんと力なくスマホの液晶に横たわっていたが、先に向かって紫のグラデーションがかかる触手の一本をどうにか動かしてスマホの電源を入れ、メモ帳のアプリを開いた。


『ごしゅじん ぷにぷに はげしい』

「ごめん、つい。痛かった?」

『いたくない』

「ならよかった」


 ふよんと浮き上がったふよの笠を撫でつつ、私は自分の手のひらを見る。細く短い藁が一本、さっき釘を抜き取ったときに人形から失敬したものだ。六晩と少しの呪念がたっぷりと染み込んでいる。


「帰ったら呪い返しの対処しなくちゃね。呪力自体はそう強くなさそうだけど……今日で七日目、か」

『よがあけるまえにしないと うしがおきるまえに』

「牛?」

『そこにいる』

「え?」


 ふよが触手を伸ばして指し示す場所に目を遣ると、


「――ッ!」


 少し離れたところに確かに牛がいらっしゃった。

 牛と言われて咄嗟にホルスタインをイメージしたが、あれは黒毛和牛だろうか。私の体格など比較にならない黒い塊が、木々の間で熟睡していらっしゃる。いくら草食動物とはいえ目覚めて気づかれたらと思うと本能的な恐怖が走る。悲鳴を上げなかっただけ誉めてほしい。


『あれ さっきうまれた たぶん ふよと にたそんざい』

「……使い魔、ってこと? あのひとの?」

『にてる けど にてひなるもの ふよにはいしがあるけど あれにはたぶんない あれはしすてむ』


 なんとなくわかる、と液晶に文字が踊る。


『なのかめ のろいがかんせいしたら あいてのところにいく しなかったら のろったもののところにいく それだけのそんざい しすてむ』

「なるほどね……呪いそのものが形をとった存在っていう認識でいい?」

『そんなかんじ』

「だったらあれ自体どうにかできないかな……。あれがなかったら害は起こらない訳でしょ?」

『そう でも たぶんできない あれをけせても ちからのおおもとはわらにんぎょう』

「ああ、元をどうにかしないと結局また生まれる系か……」


 魔の泉を破壊しない限り魔物が生まれ続ける的な、ライトノベルの王道設定だ。それならいっそ異世界から勇者のパーティーでも召喚してやろうか。本当にあるのかどうかなんて知らないけれど、真実の現実がこうもファンタジックなら異世界だって案外どこかにあるんじゃないかと思えてくる。

 二ヶ月前の私ならこんなこと思いもしなかっただろうに。


「念のため結界だけ張って帰ろうか」

『よき』


 夜明けまでにどうにかできるだろうが、約束した以上万が一のことがあってはいけない。足元に注意して、ほんの少しだけ、熟睡中の黒毛和牛に近寄る。

 必要なのは、具体的なイメージ。緊急時でないから呪文の後押しはいらないだろう。

 この牛が術者のもとに行けないようにすればいいわけだから、要は結界の内側からの呪力の漏洩を防げば事足りる。後は一般人に視認できるのかがわからないので一応外から不可視にして、ついでに物理的存在の侵入を拒むようにすれば、誰かがうっかり呪いに触れるなんてこともないだろう。胸の中央の肌が熱くなるのを感じ、私は右手を軽く握り込んだ。

 開くと、羽を透かす紫の蝶が煌めきの軌跡を残して飛び立っていく。

 蝶は結界の起点となる牛の真上まで飛んでいき、木が枝葉を伸ばすようにして半球状の籠を形作る。そして先端が降りきった時、地面に光が走り円形の陣が刻まれた。複雑な文字を伴って幾重にも描かれた幾何学模様に、三日月と蝶の緻密な意匠が重なるそれは私だけの魔方陣。

 ほわ、と柔らかな光を滲ませる結界に、未だに信じられないような気持ちになる。


「……よし、帰ろう」


 なくさないように藁をスマホとスマホケースの間に挟み込み、ポケットにしまう。ふよにも入ってもらった方がいいだろうかと思ったが、人通りの少ない深夜だから構わないだろう。本来は水棲生物のはずなのにお風呂以外で水に濡れるのが嫌いなふよは、私の頬の横でふよふよ浮いている。最初こそ驚いたものだけれど、今となっては日常の一部になっている光景だ。

 降りしきる雨に地面は更にぬかるんで、来たときの足跡さえわからなくなっている。一仕事終えたら急にやって来た眠気に小さく欠伸し、怠い体を無理矢理動かして私は帰路についた。雨だと箒が使えないから不便だ。しかも帰ってもどうせまだ眠れない。明日の授業が切実に不安だ。


 ……なんで私は、大嫌いなあの男のことでこんなに苦労しているんだろうか。


 わかっている。私の精神衛生のためだ。けれど心身の疲労を覚える度に反芻してしまう自問。


「……死ぬなら死ぬでせめてもうちょっとましな死に方してよ……」


 畳の上で家族に囲まれた大往生とか、そういう後味の悪くないのを。

 厚い雲に覆われた空は星も見えない。街灯の光を見て心が慰められるわけでなし、私はあの男に聞かせたい恨み言をどこへともなく吐き出した。

 本当に一度滔々と語ってやりたい。私がいかにして巻き込まれて何度も後味の悪い思いをして、色々なことを未然に退けてきたのかを。本以外のものにさしたる興味を示さないあの男に――約十分後にここで彼女の丑の刻参りに使用された金槌が勢い余ってすっぽ抜けて飛来して脳天に直撃という、大変残念というかツッコミどころしかない呪われた死を遂げるはずだった、私の大嫌いなあの男に。

 まあ、言う日なんて未来永劫来ないだろうけれど。いくら文句が浮かぼうとこれは私の自己満足のためにやっていることなのだから、他者にぶつけるのはお門違いだ。


 ――ああ、きっと今日も夢見は悪い。


 消えない憂いを抱えて、私は――『夢見ゆめみの魔女』は、また一つ欠伸をした。

 これは、大嫌いなあの男にかかった呪いを発端として、『夢見の魔女』になってしまった私が奴の死に様を変えるために東奔西走する話。

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