3.
ドクン、と
心臓が鳴った。
家が押し潰される。真っ先にそう思った。
がたん、と椅子を蹴った足はしかし数歩床の上を駆けてすぐ止まる。見える。あぁ、壁を透けて黒色の触手が見える!見回せば天井も壁も囲まれていた。いや、それらは全て消えていた。知覚が狂っていく。本来見えるはずでないものが見える。ボクは家ではなく、どこか、どこでもない場所に居た。まるで自身の肉体から外れて魂だけが一瞬一瞬で世界を旅しているかのよう。それでいてボクは家の中に居るのであった。ボクは気付かぬうちに何か声を発した。見える。おぞましいものが。見てはいけないものが。くねくねとのたうち回る触肢の塊、沸騰して泡立ついぼだらけの粘っこい皮膚、闇の中で燃えるように輝く瞳は地上の人間を今も見つめている。忌々しい邪悪な生物はいつだって傍に在る。
海から、空から、地下から、後ろから。
じわじわとひたひたと此方へ迫り来る。
あぁ、人間と言うのは神々が眠っているうちに発展を遂げただけの卑小な微生物に過ぎなかった。一旦彼らが起きてしまえば、すぐにでも。踏み潰されるちっぽけな存在。
耳の奥で音楽が聞こえる。
精神を失ったかぼそく単調なフルートの音色と、押し殺した声で憎々しげに呪いの言葉を吐き続けるかのような、野蛮な太鼓の音。
時間と言う概念を越えた想像を絶する明かりのない房室の中で、噛み散らし、吐き散らし、嗤い散らす白痴の王。
絶え間なく不定形の体をくねらせ、半球形のぶよぶよとした表皮の上でぼこぼこと玉虫色の泡を立てている。粘液を跳ね散らしながら無数の触手を動かし、心を持たない踊りを踊っている。
くつくつとすぐ近くで笑う声。
そこでようやく元の場所へ帰ってきた。唇が震えて意味の通らない声を勝手に発した。
両肩の上を、二本の黒く長い腕が通ってボクを拘束している。腕の主が誰なのか見なくても分かってしまって、恐ろしさに身体がわななく。
闇よりも暗い、無貌の闇。
じっとりとこちらを観察する視線に耐えながら黙ったままを貫ければ、腕は消えた。支えるものの無くなった身体は、かくんと膝を折って力なく崩れ落ちた。未だ呆然と床を眺める顔からぼたぼたと汗が落ちる。
あぁ、まだ、終わらない。
あの世界での出来事を一節に加えて、物語は続いていく。
神話の世界の生物たちは、人が思うよりずっと近くに居る。
沼地、洞窟、水底、空中、森林、地下、廃墟、物陰、宇宙、未来、過去、そして、キミの後ろ。ありとあらゆるもの全てに潜んでいる。
いつ終わるともしれない命ひとつ抱えて、足元は不確かで。それでも背負って引き摺って、進むしか選択肢は与えられていなかった。ただただ脳の表面を血液が駆け巡って、ぐるぐるとひたすら思考を続けさせている。
論理や知性が意味をなさず、合理が死を叫ぶ世界。
知ることによって前へ進めなくなるなら。
情けないことにボクはこう祈るしかない。
せめて暫しの平穏を。
願わくば彼らに慈悲深い無知を。
楠木サトルの後日談 @donuts_07
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