終章

 前方からの強風がアリーシアのコートの裾を巻き上げた。

 アリーシアは風にさらわれる邪魔な髪を一つにまとめて、白い毛皮のコートの襟へと押し込んだ。アリーシアは旅装束で森の中を歩いていた。

 下着の上からは革の服を二重に着て腰のベルトで留めている。さらに、防具武具を身につけ、皮のコートを羽織っているので全身はずしりと重い。腰には短剣を指していた。

 アリーシアは黒の森を一人で進んでいた。

 結局、一年経っても暗黒魔法の内、火炎を使ったものはそれほど上達しなかった。小さな炎を灯せる程度で、それは森や雪原を超えるときの野営の明かり程度にしか使えない。

 その他の暗黒魔法とユーシスに習った風の魔法は、ユーシス曰く『並の魔術師近くにはなれた』らしい。師匠が良いから上達も速い……とユーシスは笑っていたが、それに加えてアリーシアには素質もあったらしい。

 今も、風の精霊がゆるくアリーシアの周囲を飛び回っている。

 凍えるような森の中でも僅かな温かさをアリーシアは感じていた。


 アルゴン国を出てはや十日。

 足元は短い下生えから、雪に変わっていた。木々の隙間から吹き込む風とともに雪が運ばれてくるのだ。時折は雹のような雨も降った。

(風の精霊たちや炎の魔法がなければとっくに凍えてしまっていたわ)

 アリーシアはアンカーディアとユーシスに感謝をした。 

 アリーシアの白い肌はこの旅でやつれ、髪は傷み、手足にはかすり傷も増えていた。

 けれど、エメラルドの瞳だけは輝き失わずに、前だけをみて進んでいた。

(もうすぐ、グレン様に会える!)


 森を抜けた。

 視界がぐんと広がり、雪原が広がる。

 遠くに、小さく小さく城が見えた。

(あそこだわ)

 アリーシアは白い息を吐く。

 その城のシルエットは懐かしさと同時に、今までのグレンに会えなかった寂しさを思い出させた。アリーシアの目の前が涙で曇る。

(いえ、まだよ)

 アリーシアは手甲で涙を拭う。まだ城までは遠い。けれど今までの行程を考えれば後ほんの少しなのだ。

 涙は取って置かなければならない。

(待っていてください、グレン様)

 アリーシアは雪原へ一歩踏み出した。


(アリーシア……)

 グレンは、塔の天辺の庭園に竜の姿で繋がれていた。

 触れない、見えない、暗黒魔法の鎖だ。

 一年前。イジュラとの戦争に勝利した後で、アンカーディアとグレンは再びこの地に戻ってきた。

 そしてアンカーディアはここに魔法でグレンを繋いだ。竜のグレンの四肢と首に漆黒の鎖が現れて、地下の牢獄へとその先が繋がれる。鎖の硬い音をグレンは聞き、その鎖は一瞬で見えなくなった。

 アンカーディアはグレンの側に寄ると、その首筋を撫でた。

「短い間だったが、よく仕えてくれた……アリーシア姫のことは、生涯忘れないがな」

 苦笑するアンカーディアを、グレンは初めて見た。

 アンカーディアは続ける。

「だが、良い。契約と呪いだ。お前をここに繋いでいくことで、彼女への想いも置いていく」

 グレンは黙って頭を垂れた。呪いと契約のいびつな主従関係だったかもしれない。

 けれどアンカーディアは、呪いだったとはいえアリーシアを守り育て、最後には故国を守る戦争にも参加してくれた。

 グレンは一言呟いた。

「恩は、忘れない。アンカーディア」 

「忘れてくれ。長い人生で初めての挫折だ」

 アンカーディアは笑いながら、グレンの首筋を軽く叩き、手を離す。

「姫に宜しく伝えてくれるか。……きっと今の彼女なら、どれだけかかってもお前のもとにたどり着く」

 遠く、雪原の彼方をアンカーディアは見つめた。

 グレンも首を上げて雪原を越え、森の向こうを見つめた。

 二人はそこで別れた。


 雪原の向こうに、小さく人影が見えた。

 アンカーディアが去り、一年が経とうとしていた。

 「アリーシア!」

 竜の姿で、グレンは吠えた。

 声が聞こえたのか、人影が立ち止まる。それから大きく手を振る姿が見えた。

 

 アリーシアは雪原で竜の咆哮を聞いて立ち止まる。

 城は遠く、まだその姿は確認できなかったが、グレンの声だと分かった。

 普通の人間には恐ろしいだろう咆哮も、アリーシアには愛しい人の呼び声だった。

 アリーシアは背を伸ばして、大きく手を振った。

 愛しい竜が待つ漆黒の城を目指して、アリーシアは雪原を駆け出した――。



【end】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔術師の花嫁と漆黒竜 河野章 @konoakira

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ