1−6

 夜遅く。

 アリーシアは眠れずに、窓辺で空を見上げていた。

 月は雲に隠れて見えない。アンカーディアが支配するこの国では、晴れ間が覗くことなどめったに有りはしなかった。

 ふと、塔の上へアリーシアは目をやった。

 夜の巡回に出ているのか、塔の上に漆黒竜の姿はなかった。

 先ほど、アンカーディアは確かに言った。グレンは旧アルゴン国の竜であると。

 ではなぜ今ここにいるのだろうと、アリーシアは考える。

 アリーシアの見張りであり、アンカーディアの護衛……。

 そこまで考えて、先程のアンカーディアから受けた額へのキスを思い出す。優しく、けれど熱を帯びたものだった。

 かあっと顔を赤くして、アリーシアは首を振った。

 アンカーディアが言っていることは、今までぼんやりとしか分かっていなかった。

 けれど、行動に移されたことで分かった気がした。

 アンカーディアの許嫁と呼ばれること。妻になるということ。

「私は……アンカーディア様を愛せるのかしら」

 口にして呟いてみる。

 アンカーディアのことは嫌いではない。親切にしてもらっているというのも分かる。

 しかし、大切な人……それ以上の思いがどうしても湧いてこないのも事実だった。

 アリ―シアは自分がまだ幼いからだと言い聞かせた。

 きっともう少し待てば……一年経てば、アンカーディアの花嫁としてアンカーディアを愛することができる。

 そこで、バサッと大きな翼の羽音が聞こえた。

 深夜の薄曇りを背景に、漆黒の竜がアリーシアの部屋の近くを旋回し、塔へと戻っていくところだった。

「グレン様が戻ってきたのね……毎晩こうやって、見張りをしているのかしら」

 アリーシアは窓から僅かに身を乗り出した。

 竜は、静かに塔の空中庭園へと着地した。

 そして、翼を折りたたんだかと思うと、アリーシアの見る前で見る間に小さく小さくなっていく。

「え……」

 アリーシアは驚きの声を上げて、思わず口を覆った。

 こちらが見ていることを知られてはいけないと、咄嗟に思ったのだった。 

 竜は首を縮め、翼を窮屈そうに伸ばしつつ、最後には一人の青年の姿となった。

 薄闇の中に、ふいに月の光が届いた。雲に隙間が出来たらしい。

 青年のその姿はアリーシアの目にしっかりと写った。

 月に輝く黒の甲冑に、漆黒のマント。黒い髪に、輝く褐色の肌。

「あれが、グレン様……?」

 8歳の時、ここへ連れてこられたときの記憶が鮮明に思い出される。

 アリーシアを慰めてくれた謎の青年。

 アリーシアは彼の言葉を思い出した。小さい頃から何度も心の中で確かめ、唱えていたた言葉。

『私には会えない。けれど、ずっと城にいる……』

 そう、彼はずっとアリーシアの側にいたのだ。

 アリーシアを見張って……見守っていてくれた。 

 なぜだか分からず、アリーシアは涙が溢れた。

 涙が溢れて初めて、自分は寂しかったのだと分かった。

 アンカーディア様は優しい。

 ラルフだっている。

 贈り物も山のように貰った。

 けれど、故郷を後にして、今のアリーシアの胸の中にはなぜだか大きな穴があった。

 一年後にはアンカーディアと結婚をする。

 そして世界を知らずに、ここで二四歳で死ぬだろう。

 それがアリーシアにかけられた呪いなのだ。

 覚悟はしていた。していたつもりだった。

 だが、実際は違った。受け入れる覚悟が足りなかったのかもしれない。

 胸に抱いていた幼かった日の思い出は薄れつつある。父親や母親は元気だろうか。自分の侍従達や国の民達は……。

 彼等はきっと自分が知らぬ間に皆年老い、成長し、そして自分は誰より先に死んでいく。

 この枯れ果てた城で、私だけが死んでいく。

 アルゴン国のあの輝くばかりの花々や、小川のきらめき。人々の笑顔に降り注ぐ太陽の光。

 そんな話だけでもしたいとアリーシアは思った。

 今のアルゴン国がどうなっているのか。懐かしいあの人々は元気だろうか。

 思いは溢れて涙となって流れた。

 グレンと故郷について話したい。

 故郷が懐かしい。

 アリーシアは寝間着のまま、裸足で駆け出した。

 会わなければならない。彼に。グレンに。

 その気持ちしか今のアリーシアにはなかった。

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