小室楓:2
朝早くに目が覚めた。今日は大学の講義にゲストとして出席することになっている。院長と仲のいい教授が教養科目において医療関係の講義をしているらしく、男性専門医についても講義で取り扱いたいとか何とか。細かいことはどうでもいいが、そこで男性専門医を呼びたいと院長に相談したらしい。最初は私の同僚がたのまれたのだが、その同僚は人前でしゃべるのが得意ではないそうなので代わってくれないかとお願いされた。貸しを作っておくのも悪くないかと考え承諾したのは2週間ほど前のこと。今になって思えばむしろ借りができたのかもしれない。彼に少しでもお近づきになろうと咄嗟に思いついたアイデアだった。最初はあまりいいアイデアだとは思わなかったが今考えると割と自然に誘うことができたし、悪くないアイデアだったと思いなおした。
久しぶりにスーツを着て彼のいる病室を訪れる。講義に着ていく服が彼にはないことがわかっていたわたしは服を買いに行こうと提案すること彼と過ごす時間が少しでも増える。事前に服のサイズを聞いて服を用意して講義に向かうこともできたがそうするわけもない。彼はすぐにその提案を受け入れ服を買いに行くことになった。彼がスーツを着ることにしたのは意外だったが。
私は車で通勤していないのでタクシーを利用してスーツ店に向かうことになったのだが、彼は移動中でも、スーツ店でも女性に対して警戒心のかけらもなかった。そんな彼を危ういと感じるのと同時に、私に対してだけだと思っていた柔らかい態度を他者に対しても振りまく彼に何とも言えない感覚を覚える。かっこいいスーツを着る彼の写真撮影に付き合ったり、一緒に昼食を食べたりと、そんなのフィクションでしかありえないと思っていた。その時私は、ただ高揚感と周りへの優越感にひたる女だった。
午後は気分をしっかりと入れ替えて、仕事モードに切り替えた。講義でカッコ悪いところは彼にはみせられない。講義内容は講義のほとんどの時間を使って男性専門医のことについて話すことになっている。予定どうりに講義は進み最後に桐谷さんが一言二言話す時間が来た。本当は彼に話してもらうなんて、目立つしさせたくなかったが彼を連れてきた名目上仕方ないこと。彼にマイクがわたり学生の注目が一気に集まる。
「どうも、桐谷京介です。小室さんにはお世話になっています。彼女は医者としてとても尊敬でき、信頼できると思います。患者としても誠意ある対応をしていただき安心です」
彼の発言は私は心をかき乱され、複雑な気持ちになる。彼が多くの女性の前でも臆することなく話すことは想像できたことだ。私の面子を立てる発言もとてもありがたい。しかしそれ以上に私を医者として尊敬し、信頼しているという言葉が痛く突き刺さる。一度は捨て去った医者としての心構えを良心の呵責が刺激する。信頼してくれる彼を性的にみる私自身に自己嫌悪を感じる。昼食までの楽しかった時間が私を苦しめる。
講義後、質問しにくる学生が多く、どうしたら男性に信頼されるのかとかそういった質問もあり、なかには彼の連絡先を教えてほしいという学生もいたが当然医者として守秘義務があるので連絡先は教えられないと答えた。なくても教えるわけもなかったが。
帰りは大学の職員が病院まで送ってくれることになっていたので案内されるまま車に乗り込む。講義での彼の言葉が頭からはなれずどう接すればいいのか答えがみつからない。彼は疲れたのか車の中で寝てしまった。私はこんなにも悩んでいるのにのんきに寝ている彼に怒りすら感じそうになる。そんな彼を見て大学の職員が話しかけてきた。
「私も講義きかせてもらいました。こんなに無防に寝てしまうなんて、あなたはとても信頼されてるんですね。すごいと思います」
追い打ちのような言葉が私にひどくのしかかる。
病院に帰ってきてからも仕事は手につかず、どうすればいいのかということしか頭にない。こうしていても仕方ない。今日のお礼を言っていないこと思い出した私は彼の病室に行くことにした。
「入りますよ桐谷さん」
「どうぞ」
スーツを着ていた時の力強さの印象が強かったせいか、患者服を着ている彼は弱弱しさを感じさせる。
「お体の調子の方はどうでしょうか」
「特に問題ないですよ。ちょっと疲れましたけど」
「改めまして、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、いろいろあって楽しかったです」
「それなら良かったです・・・」
たのしかった、私もそのはずなのにやはり複雑だ。
「小室さんもお疲れのようですね、よかったら肩でももみましょうか」
またもや警戒心の薄い彼はとんでもない提案をしてきた。そんな誘惑はまるで今の私を嘲笑うかのように感じた。
「いいんですか?」
「ええ、小室さんには大変よくしてもらってますしお安い御用ですよ」
「・・・それならお願いしようかな」
私が思った以上に肩が凝っていたのか、彼の肩もみは心地よかった。少し痛いくらいの力加減が男性に触られていることを感じさせる。
「桐谷さんとても・・・お上手ですね・・・・・ん・・・」
「まあ昔はよくやってましたしね」
「・・・・・・はぁ・・・・そんな人がいるなんてうらやましいです」
「そんな大したものじゃないですよ」
素直に嫉妬した。そう長くない時間だったが至福の時だった。やはり私は彼が欲しいのだ気が付いた。ただ本能的にそうだった。
「このくらいでいいですかね」
「・・・・・・・・」
「小室さん?」
「ありがとうございます。おかげで疲れがとれました。私もお返しにマッサージさせてもらえませんか?」
誘惑する彼が悪いんだ。何度も気をゆるして無防備で。私は悪くない。
「えっと、小室さんこれはいったい」
「あなたが悪いんです。何度も忠告しても、無防備なのが悪いんです」
ただ私は本能のままに行動し、彼の唇を貪った。
はっと我に返る。満たされた本能に代わって戻ってくる急速な理性。どうしようもない焦燥感。私が一番したくなかったただ理性のない行動の押し付け。
「あ、えと、ちがうんです、こんなことするつもりじゃ、本当にごめんなさい」
この場にいることすら怖くなってただ逃げることしか思いつかなかった。彼の信頼を裏切ってしまった自分がゆるせない。部屋を出ようとするところで彼に手をつかまれた。この力強さが今は怖い。
「小室さん、待ってください」
「本当にごめんなさい! 無理やりなんて私最低でした。だからもう・・・」
「俺はうれしかったですよ。小室さんはとても魅力的な女性だと短い付き合いですけどそう感じてます」
彼はただ事を大きくしないためにそう言ってくれただけだろう。ことは大きくなれば彼も困るだろう。
それでも期待してしまうのは私が弱いからだろうか。
「・・・本当ですか? 気を使ってませんか?」
「本当です。どうしたら信じますか?」
「・・・強くを抱きしめてくれませんか? それなら信じます」
それが真実でないなら、無理やりしてなお、抱きしめてほしいというふざけた女だと嫌ってくれたほうが楽だと思いそう口にした。
だからとてつもなく驚いた。抱きしめられるとも思っていなかったが後ろからいきなり抱きしめられて心臓が止まるかと思った。
「さっきはあんなに大胆なことをしたのに、こんどは随分と可愛いお願いなんですね」
耳元でそう囁かれたときには、情けなさと恥ずかしさ以外、何もなかった。理性と本能がごちゃごちゃになった感覚。何か言おうとする理性と何も言うことのできない本能がぶつかりあって、出てくる言葉は意味をなさない。そんな時間も長くは続かず、いとおしい感覚は離れていく。
「これで信じましたか?」
私はただうなずくことしかできなかった。
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