第7話。雛鳥の水槽

「それじゃあ、行ってきますね。結莉ゆうりくん」


 今日は朝から竜胆りんどうさんが出かけてしまった。


 朝食は冷蔵庫に入っている物を適当に食べていいと言われたけど、いざ冷蔵庫を開けてみればどれに手をつけていいかわからない。


 冷蔵庫を閉じようとした時、強い力に止められた。


「閉めなくていい」


「マキ。起きたんだ」


 いつにも増して、マキは眠たそうな顔をしていた。


 マキは冷蔵庫から紙パックに入った牛乳を取り出した。近くの棚からコップを取り出して、牛乳を入れようとした。


「いつも牛乳飲んでるけど好きなの?」


「そうでもないわ。他に飲みたい物がないだけ」


「じゃあ、水でもよくない?」


 僕の言葉でマキが手を止めた。マキは空のコップを手に持って水道の蛇口を捻り、水を注いだ。


「やっぱり、牛乳でいいと思うけど」


「ふーん」


 最初から飲む気が無かったのか、マキはコップの水を流した。改めて牛乳をコップに注ぐと、それを僕に差し出してきた。


「あげる」


 僕が受け取ると、マキは近くの椅子に座った。


「マキは飲まないの?」


「そのうち飲むわ」


 怒っているわけじゃないと思うけど、少し様子が変に見える。寝起きが悪いせいか、あんまり本調子ではなさそうだ。


「マキって、休みの日はずっと家に居るの?」


「そうね。たまになら友人と出かけたりもするけれど、基本的には家でじっとしてるかしら」


「家で何かすることある?」


「ケータイがあれば、時間なんて潰せるわ」


 僕は自分のケータイを持っているわけじゃないけど、ケータイだけで時間が潰せるとは思えなかった。


「結莉は家に居て、退屈じゃないかしら?」


「僕は……好きで家に居るから」


 外に出ても、やることなんてない。


「……外に出れないわけじゃないのよね?」


 マキに質問をされた。


 答えることは簡単だけど、言い方に含みがあるのが気になった。まさか、マキは僕を外に連れ出すつもりなのか。


「どこか行きたいの?」


「そうね。結莉とデートがしたいわ」


 僕が外に出る危険性。今までは竜胆さんと一緒だったから問題も少なかった。けれど、マキと二人きりになって安全だと言えるのか。


 不安はあるけど、マキと関係を深める為には必要だと感じた。このまま何もないような日々を受け入れるのは、竜胆さんを裏切るような気がした。


「竜胆さんに確認して、問題がなかったら」


「そう。わかったわ」


 マキはポケットからケータイを取り出して、すぐに連絡をしていた。竜胆さんが無理だと言えば僕は従うつもりだった。


「問題ないそうよ」


「そっか。それで、いつ出かけるの?」


「今日よ」


 もう、マキの突拍子もない行動にも慣れた。




「結莉、平気?」


「うん。大丈夫だよ」


 今、僕とマキは外を歩いていた。念の為に僕は女装をしているけど、安心するという意味でもかなり違っている。


 竜胆さんは僕がマキと一緒なら何処に行っても問題はないと言っていた。ただマキの行き先次第では困ってしまうけど。


 バスを降りてから、それなりに時間が経ったと思うけど。マキは目的の場所よりも少し離れてバスを降りたそうだ。


 その理由はすぐにわかった。


「海……」


 目の前に広がる海。聞こえてくる波の音。知識の中だけで存在していた光景がそこにあった。


「どう?って……ただの海だけど」


 そうか。普通の人は海くらい見られるのか。


 僕にとっては初めての光景。覗き込むと、海の中が僅かに見えて、さらによく見ようと体を手すりに乗せて傾けた。


「結莉!」


「……っ」


 名前を呼ばれて気づいた。


 僕の体はマキに抱きしめられていた。まだ落ちてはいないつもりだけど、先に動いたのはマキの方だった。


「どうかしたの?」


「なんだか怖いわ」


 海に落ちたら、最悪の場合死ぬのだろうか。


 溺れて死ぬなんて、想像するだけでも苦しい。もしも、僕が自ら死を望むとすれば、そんな苦しみを味わいながら死ぬなんて嫌だった。


「マキ。僕は死んだりしないよ」


「本当かしら?」


「うん。死ぬ理由なんてないから」


 僕は言葉を間違ってしまった。


 きっと、僕は理由を見つけたら選んでしまう。


 そんなことはマキに知られたくはなかった。


「……結莉。そろそろ行きましょうか」


 マキは僕から離れた。かと思えば、手を握ってくる。少し痛いけど、まだ僕が生きていることを実感した。


 海の向こう側なんて、想像も出来ないけど。この繋がれた手の温もりを失うよりも、向こう側が魅力的には思えなかった。


 しばらく海沿いを歩いていると、大きな建物が見えてきた。駐車場には車が多く止まっていて、何らかの施設だとわかった。


「ここって……」


「水族館よ。結莉は来たことあるかしら?」


「初めてだよ」


 僕が知っているのは、言葉の中だけだ。実際に目にするのは今回が初めてのことだった。


 正面の入口から建物に入る。マキが受付を済ませてから、さらに建物の奥に進む。すると、すぐに最初の水槽が見え始めてきた。


 色々な種類の魚が泳いでいる。マキは僕が見やすいように手を離して、少し離れた場所に立っていた。


「マキは見ないの?」


「それなりに見てるわ」


 僕にはマキが魚に興味を持っていないように見える。水族館に僕を連れて来たのはマキなのに、本人が楽しめなくてもいいのだろうか。


 泳いでいる魚を見ていても、特に楽しくない。僕が歩き出すと、マキもついてくる。すると、今度こそマキが興味ありそうなモノを見つけた。


「マキ。この魚可愛いと思う」


「どれのこと言ってるの?」


「ほら、この白黒の……」


 マキが僕の隣で水槽を覗き込んだ。


「結莉。この魚の名前を知ってるかしら?」


「シャチじゃないの?」


「いいえ、シャチはもっと大きな魚よ」


 マキが少しだけ笑っているように見えた。


「これはペンギンよ」


「ペンギン……」


 近くの壁にペンギンの説明が書かれていた。ペンギンは魚ではなくて、鳥の仲間らしい。鳥なのに水の中を泳いでも平気なのだろうか。


「ペンギンは水の中で息できるの?」


「エラが付いてないから呼吸は無理じゃないかしら」


「エラ?」


 マキが僕の首に指先を這わせる。


「魚の首らへんに空いてる穴のことよ」


 それが常識だと、すぐに理解した。


 魚はエラがあるから水の中でも生きられる。鳥は羽があるから空を飛べる。当たり前のことなのに僕は実際に目をするまで理解が出来なかった。


「……マキは僕のこと馬鹿だと思う?」


「ああ、ごめんなさい。さっき私が笑ったのは、結莉が生き物に興味を持ってくれたのが嬉しかったからよ。結莉を馬鹿にしたわけじゃないわ」


 マキが僕の頭を優しく撫でる。


「知らなくたっていいのよ。その方がたくさん教えて、たくさん話せるもの。私は無知な結莉を馬鹿だとは思わないわ」


 これまで僕はあの人から多くの知識を与えられた。だけど、それは言葉だけの知識だ。実際に目をすることで僕は本当の姿を知ることが出来る。


「マキ。ありがとう」


「お礼なんていいのよ」


 マキが僕から離れて歩き出した。ペンギンの水槽は十分見られたけど、ペンギンにもマキは興味を示さなかった。


 色鮮やかな魚やペンギン。もっと、別の何かがマキを足を運ばせた。そんな僕の予想が当たるまでに時間はかからなかった。


 先を歩いたマキを追いかける。少し暗い雰囲気の空間があるけれど、先程のエリアに比べて人が少ない。いったいどんな生き物の水槽があるのだろうか。


「マキ?」


 マキは一つの水槽の前で立ち止まっていた。


 近づいてみるとすぐにわかった。看板に載っている生き物の名前はクラゲだった。何匹ものクラゲが水槽の中で泳いでいる。その姿をマキは眺めていた。


 これまで見てきた魚とはまったく違う。クラゲはゆっくり動いて、目的もわからない。なのに、それが正しいことであるかのように感じて、不思議だった。


 でも、何故だろう。


 僕はここでクラゲを見たことがある気がした。


「結莉はクラゲ、好きかしら?」


「好きだよ。ゆっくり動いてるから目が疲れない」


「そんな理由?普通、可愛いとかじゃないの?」


「可愛い……」


 クラゲに対して、可愛いなんて感情はあったのだろうか。ゆらゆら動いているクラゲを見ているだけで僕の心は満たされていくみたいだ。


「マキはクラゲが好きなの?」


「そうよ。たくさんいると綺麗でしょ」


「うん。綺麗だと思う」


 マキがクラゲの水槽に手を触れた。


「私、小さい頃から何度もここに連れて来てもらったことがあるの」


「竜胆さんと一緒に?」


 マキが頷いた。


「でも、小さい頃は全然楽しくなかったのよ。魚もペンギンもクラゲも。私の心を満たすことはなかった。だけど、今は……ここに来ると不思議と昔を思い出せる気がして……」


 その時、マキの表情は悲しみに満ちていた。


 きっと、マキの過去に様々な経験をしたんだと思う。マキの父親が亡くなっていることもそうだ。忘れたくても忘れられない記憶をマキはたくさん持っている。


「結莉、向こうの水槽にもクラゲが……」


 マキが言葉を最後まで口にせず、振り返っていた。最初はごまかしたのかと思ったけど、どうやら違うみたいだ。


「マキ?どうかしたの?」


「知り合いっぽい人がいたから」


 僕も顔を向けると、近くには子供が二人いた。さらに二人と手を繋いでいる若い男の人。あれがマキの知り合いだろうか。


「声かけるの?」


「いいえ。きっと、向こうは私を知らないわ」


「片思い?」


「馬鹿ね。ただの親戚よ」


 少し強めに否定された。


「三人で仲良さそうだね」


「私達も仲良しでしょ」


 マキが通り過ぎる親戚の人と顔を合わせないようにする。本当に話しかけるつもりはないのか。そもそもマキは男の人が苦手だから、積極的にはなれないのかもしれない。


 そんなことを考えていると、アナウンスが流れてきた。どうやらイルカショーが始まるみたいで、周りにいた人も少し減った気がする。


「マキ。イルカは見に行くの?」


「どっちでもいいわ」


 マキの視線はクラゲに釘付けになっている。


 僕はそっと手を伸ばして、マキの手を握った。


「ああ、ごめんなさい。イルカショーに行くのかしら」


「違うよ。僕はもう少しクラゲを見ていたい」


「私に気を使わなくてもいいのよ?」


「ううん。ここがいい」


 隣にマキがいて、一緒にクラゲを見られる。何気ない時間が僕にとっては何よりも大切な瞬間になっていく。


 きっと、今日のことは大切な思い出になる。水槽を泳ぐクラゲの姿もマキの手の温もりも。僕にとっては、本当に大切なモノだ。


 だけど、永遠なんて存在しない。


 僕とマキが水族館から出たのは、既に日が暮れた後だった。ずっと、二人でクラゲを見ていたいだけなのに目が疲れてしまった。


「マキ。今日はありがとう」


「退屈じゃなかったかしら?」


「ううん。やっぱり僕はマキと一緒にいられるだけでいいから」


 場所なんて関係ない。マキの隣にいると自分の中の孤独が紛れる気がした。だから、僕は嘘なんて言っていない。


「結莉」


 マキが僕の顔に触れてきた。何かされるのかと思ったけど、マキの顔を見ればすべての不安はなくなった。


「ありがとう」


 マキは優しい笑みを僕に向けてくれていた。

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