第8話。竜胆の目的

 水族館に行った次の日。今日はマキが友達の家に泊まりに行っているから。一人で寝ることになってしまった。


 最初はマキが僕を連れて一緒に行こうとしていたけど、さらに他人の増える空間で正体を隠すのは難しいと思い。適当な言い訳をして、残ることにした。


「……寂しい」


 この家に来て、初めての出来事。マキと眠ることに慣れてしまっていたせいか、一人でいると孤独を感じるようになってしまった。


 真っ暗な部屋。マキの匂いが残った布団に顔を埋めながら、膨れ上がる感情を誤魔化そうとしていた。


 竜胆りんどうさんに頼ることは簡単だった。竜胆さんなら僕が一緒に寝たいと言えば、きっと受け入れてくれる。


 また、あの悪夢を見るくらいなら、竜胆さんのところで眠りたい。僕はマキの部屋から出て、竜胆さんの部屋に行くことにした。


 竜胆さんの部屋は一階。階段を降りて、廊下を進んだ先。竜胆さんの部屋はそこにあり、何度か訪れたことがある。


 僕が扉に近づけば、扉は向こうから開かれた。


結莉ゆうりくん」


 にこにことした作り笑顔を見せてくれる竜胆さん。だけど、最初は寝巻きに見えた竜胆さんの服。薄着。と言うよりも、レースのような服だった。


「あの……」


「一緒に寝ますか?だったら、少しだけ『我慢』してくださいね」


 竜胆さんに腕を掴まれる。そのまま部屋の中に引き込まれれば、僕は部屋にあるクローゼットの中に押し込められた。


「静かにしておいてくださいね」


 竜胆さんは人差し指を口元に当てている。


「大切な物は隠しておかないと」


 独り言のように吐き出された竜胆さんの言葉。クローゼットの扉は僅かな隙間を残し、竜胆さんが離れていった。


 このまま待っていればいいのだろうか。


 しばらくすると、部屋の中に誰が入ってくる。見覚えのある男の人。最初は竜胆さんと話をしていたかと思えば、次第に空気が塗り替えられるような感覚に呑み込まれた。


「竜胆」


 クローゼットから目にする外の世界は、僕にとって初体験の出来事であり。溢れ出る好奇心が抑えられなかった。


 これまでに聞いたことのない、竜胆さんの声。苦しみの声にも似ているけれど、竜胆さんの表情は違って見えた。


 男の欲望に支配される竜胆さん。これが人間の本来の姿だと言うのなら、いずれマキも同じ顔をするのだろうか。


 胸の奥のゾワゾワが治まらない。あの男に弄ばれる竜胆さんの姿を見て、僕は未知の感覚に支配されていた。


「……っ」


 竜胆さんの口元が釣り上がり、小さな笑顔が浮かんでいた。初めは、いつもと同じ笑顔であると思っていたのに、僕は大切なことを見落としていた。


 僕の視線と、竜胆さんの視線。


 それは確かに、一直線に結ばれていた。


「竜胆。そろそろ……」


「今日はやめてください」


「しかし……」


「結莉くんがいますから」


 男が竜胆さんから離れて、触れ合いが終わったように見えた。男は竜胆さんに何も言わずに部屋を出て行った。すぐに玄関の開かれる音が聞こえたから、もう男が現れることはなさそうだ。


「竜胆さん」


 クローゼットから外に出ると、竜胆さんに声を掛けた。


「こんなこと……なんの意味が……」


 竜胆さんは起き上がり、僕に寄りかかってくる。


「お風呂。一緒に入りましょうか」


 今でもにこにこしている竜胆さん。特に断る理由もなかったせいか、竜胆さんとお風呂に入ることにした。




 脱衣場で晒される竜胆さんの体は、先程よりも近くで目にすることになった。マキとは違って少し肉付きが見られるけど、それは決して体の形を崩すものではなかった。


「結莉くん。恥ずかしいので、あまり見ないでください」


「……本当にそう思ってますか?」


「ふふ、結莉くん。私に慣れたみたいですね」


 今の恥じらいは、竜胆さんの冗談だってわかってしまった。服を脱ぎ終わった竜胆さんは躊躇いもなく、僕に体を見せつけてくるのだから。


 だけど、正面で見た時、僕は一つの場所に視線を向けた。竜胆さんの指先が触れている場所。それはお腹の辺りで、何か気になってしまう。


「何か、気になりますか?」


「……なんでもないです」


 僕も急いで服を脱いで、竜胆さんとお風呂に入ることにした。竜胆さんがイスに座って、脚の間に僕が座らされる。


「結莉くん、洗ってあげますよ」


 竜胆さんに髪を洗われながら、僕は昔のことを思い出していた。最後に母親と一緒にお風呂に入ったのはいつだったか。ある程度大きくなった頃には、あの人と入ることが多かった気がする。


「結莉くん。さっきのことはマキには言わないでくださいね」


「言えるわけないですよ……」


「だったら、もう一つ」


 竜胆さんに腕を掴まれ、手首を背中側に動かされる。すぐに竜胆さんの体が僕の背中に押し当てられ、手のひらを指の形に沈む場所に押し付けられた。


 それは竜胆さんのお腹だった。柔らかくて、ずっと触っていたいけれど。何か押し込んではいけないような気がした。


 竜胆さんの行動の意味。


 当てずっぽうのつもりで、僕は言葉を選んだ。


「赤ちゃん、ですか……」


「はい。その通りです」


 竜胆さんが妊娠しているなんて考えもしなかった。だけど、あの男と触れ合う竜胆さんの姿を見みれば、これは当たり前のことだったのことかもしれない。


 わざわざ、竜胆さんが僕に見せつけたのも、その事実を認識させるためだとしたら。それはとても恐ろしいことだ。


「結莉くんには。この子が産まれるまでにあの子の男性恐怖症を治してほしいです」


「どうして?」


「少なくとも、この子には父親が必要です。ですが、マキの男性恐怖症が治らない限り。あの人と一緒に暮らすのは難しい話ですから」


「もし、間に合わなかったら?」


「この子に父親が出来ないだけ。ただ、それだけの話ですよ」


 どうやら、竜胆さんはマキだけではなく。お腹の中にいる赤ちゃんのことも気にかけているようだった。


 でも、僕には気になることがあった。


「竜胆さん。聞いてもいいですか?」


「はい。質問ならいくらでも答えますよ」


 どうして、こんなことを考えたのか。


「竜胆さんは。あの人のこと本当に好きですか?」


「ふふ。好きでもない人の子供を産みたいと思いますか?」


 竜胆さんの回答に僕は違和感を覚えた。


 間違いなく、竜胆さんは赤ちゃんを産むつもりなんだと思う。それはマキの男性恐怖症が治らなかったとしても関係ない。


 でも、そこには竜胆さんの本心が見えない。


「僕は……やっぱり自分の為に竜胆さんに協力するつもりです。だから、きっと、その子の為に何かをするなんて思えないかもしれません」


「結莉くんは、それでいいんですよ。結莉くんは、あの子に、ただ愛される為だけにいるんですから」


「……っ」


 竜胆さんの腕が僕の体を抱き寄せる。


「アナタに期待なんて、してません」


 胸を奥をえぐるような竜胆さんの言葉。なのに僕にとっては、責任感を放棄したような。気持ちが楽になる一声だったのかもしれない。




 お風呂から出た後、竜胆さんに髪を乾かしてもらった。一人でも出来ることだけど、せっかくだからお願いした。


 髪を乾かし終わった後、僕はマキの部屋に戻ろうとした。だけど、マキがいないことを思い出して最初に考えていた通り竜胆さんと寝ることにした。


「結莉くん。少し、お話があります」


 拒否権のない僕は、そのまま竜胆さんの部屋に連れて行かれてしまう。何度か竜胆さんの部屋に入ったことはあるけど、やはり大きなベッドが最初に目についてしまう。


 ベッドの上に座らされ、竜胆さんは傍にあった袋から何かを取り出していた。


「結莉くん」


 竜胆さんに差し出されたのは、黒いケータイ電話だった。けれども、それは初めて見たものではなく、よく似たケータイをマキが持っている。


「これは?」


「結莉くんのケータイですよ」


 平然と口にする竜胆さん。でも、受け取ったケータイはどう見ても、新品と呼べる品物だった。


「わざわざ買ったんですか?」


「ええ。結莉くんと連絡が取れないのは不便ですから」


 基本的には竜胆さんかマキのどちらかと一緒にいる生活。ケータイが必要になる状況があるとは思えないけど、竜胆さんには考えがあるのかもしれない。


「あの竜胆さん……」


「どうしました?」


「ケータイの使いがわかりません……」


 僕の発言に竜胆さんは呆れる様子も見せずに、僕の隣に腰を下ろしていた。


「結莉くん」


 呼ばれて近づいてみれば、竜胆さんは膝を軽く叩いていた。それはつまり僕が座る場所を示している。


 マキほどじゃないけど、竜胆さんにもベタベタされることが多せいか。抵抗があるわけじゃなかった。


 竜胆さんに背を向け、座り込もうとすれば。後ろから伸びてきた腕に抱き寄せられた。


「それでいいんですよ」


 人の熱。マキとは違って竜胆さんの体に触れていると、酷いほど安心感を覚えてしまう。


 竜胆さんが僕の秘密を知っている人間だからなのか。それとも僕はマキよりも竜胆さんのことを信じているからなのだろうか。


「結莉くん。それでケータイはですね」


 一つ一つ丁寧にケータイの使い方を教えてくれる竜胆さん。そんな竜胆さんを見ていると、今の自分が幸せなんだと錯覚してしまいそうだ。


 竜胆さんと出会う少し前。


 雨の降る世界で、僕は遠くに見えた地上が恐ろしく感じた。後一歩踏み出すことが出来ていたのなら、今の僕はいなかったのかもしれない。


「竜胆さん……」


「どうしましたか?」


 不安。この不安はまだ消えない。


「いえ、なんでもないです……」


 だけど、竜胆さんに甘えられない。


「結莉くん。寝ましょうか」


 ケータイの使い方を教わった後、竜胆さんの隣で眠ることになった。ベッドは竜胆さんの匂いに満たされていて、その匂いに酔ってしまいそうだった。


 僕がベッドに横たわれば、背後から伸びてくる竜胆さんの腕に抱き寄せられる。マキとは違って、竜胆さんは優しく抱きしめてくれる。


 マキの機嫌が悪い時は、骨が折れるんじゃないかと思えるほど抱きしめられるけど。僕はマキの方が好きだった。


 痛みは自分の曖昧な存在をハッキリとさせてくれる。竜胆さんは、小さな僕の存在を呑み込むみたいだ。


 少しでも気を抜いたら、竜胆さんに取り込まれてしまう感覚があった。なのに僕はすぐに眠りについた。

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