第9話。御伽の襲来

 竜胆りんどうさんと一緒に眠った翌日のこと。


 まだ家にマキは帰ってきておらず、竜胆さんと二人で昼を迎えようとしていた。今日は昼から竜胆さんに用があると言っていたが、そうなると一人なってしまう。


「竜胆さんの用事って、なんですか?」


「彼とデートです」


 となれば僕が同行するのは無理そうだ。


「その格好なら、ついてきてもらっても大丈夫だと思いますよ」


 何度も同じ格好をしたせいか、女装することにも抵抗がなくなっていた。この格好はマキも気に入ってくれている。


「行きません」


「そうですか」


 竜胆さんが外に出て行く時。玄関の方から話し声が聞こえてくる。マキが帰ってくるには聞いていた時間よりも早すぎる。だったら、竜胆さんは誰と会話をしているのか。


 僕は重大な過ちを犯した。


 竜胆さんにすべてを話さなかったことが間違いだった。リビングの扉を開けて、竜胆さんが姿を見せた。そして、その隣には見覚えのある人物が立っていた。


結莉ゆうりくん。この子をお願いしますね」


「……っ」


 声を出して竜胆さんを引き止めたかった。だけど、僕が一瞬迷ったのは目の前にいる女の子を警戒したからだ。


 以前、マキが弁当を忘れた日。学校でマキと口喧嘩をしていた女子生徒。さらには保健室で僕と顔を合わせていた。


 そうだ。目の前にいる彼女の名前は御伽おとぎだ。


「どうして……」


 竜胆さんがリビングから出て行き、御伽と二人きりになる。今からでも間に合ったのに、僕は竜胆さんを追いかけなかった。


 僕は自分に大丈夫だと思い込ませる。以前、御伽には僕の正体は見破られなかった。ここで御伽を強引に追い返すような真似をすれば疑惑の目を向けられる可能性もあった。


「結莉。これ」


 御伽は僕に白い箱を渡してくる。


 受け取らないわけにはいかず、箱を御伽から受け取った。箱はわずかに冷たく、だいたい中身の想像出来たけど、何故竜胆さんではなく僕に渡してくるのか。


「よければ、すぐに食べてほしい」


 僕は御伽の目的を探る為に、落ち着いて対応することにした。白い箱の中から取り出したケーキをお皿の上に乗せて、リビングのテーブルに置いた。


「私の分は必要ない」


 お皿を用意をする前に言われた。そもそも御伽が手土産として持ってきたのなら、御伽が食べるわけがなかった。


 僕がソファーに座ると、御伽も近くに座った。家主のいない今、遠慮するという考えは御伽にはないようだ。


「何のつもりですか?」


 あくまでも御伽の要求を受けいれつつも、僕は御伽の目的を探ることにした。もし、御伽が僕の正体に気づいているのなら、茶番を続けるつもりはなかった。


「これはお詫びのつもり」


「お詫び?」


「結莉を殴ったこと、謝ってなかったから」


 御伽はもう少し、自分勝手な性格だと思っていたのに。それとも、何か裏があるのだろうか。


 皿の上に置かれたケーキ。決して高いものではないけれど、その価値を決めるのは、金額などではなかった。


 食べないという選択肢。


 それが頭に浮かんでいたのに、選ぶことが出来ないのは。目の前に置かれているケーキが、僕が誕生日の日によく食べていたケーキだったせいか。


 このケーキを口にしたところで、御伽が自らを許すことはない。あくまで、このケーキは謝罪をする為にだけに用意された、言わば前置き。意味なんて考えるだけ無駄だった。


 用意したフォークを手に取れば、少しだけ御伽の表情が穏やかになった気がした。


 こんな御伽の顔、僕は初めて見た。母親の不機嫌な顔とは違い、御伽は感情をあまり顔には出さない。


 だからこそ、今なら言葉を引き出せる気がした。


「御伽さんは兄弟はいますか?」


「弟がいる」


 わざわざ僕が御伽に踏み込んだのは、まだ僕の中で残っている御伽に対する感情をハッキリとさせたかったから。


「弟さん、何歳ですか?」


「……っ」


 御伽の顔には戸惑いがあった。


「好きな番組は?好きな色は?好きな食べ物は?」


 きっと、今の僕は竜胆さんと同じような顔をしている。他人を平気で蝕むような、そんな顔を。


「……知らない」


 僕は知っていた。


 御伽が僕のことを何も知らないんだって。


 だって、このケーキは。


 不味くて、嫌いなケーキだ。


「弟さん。かわいそうですね」


 竜胆さんの家庭が普通だとは思わない。それでも、あの家とは違って、ここは僕に生きる意味を与えてくれる。


 食事も排泄も知識も、すべて他人から与えられる生活。それが幸せだと思う人間がいるのなら、僕の過去を記憶ごと引き継いで欲しい。


 同じ苦痛を味わえば、理解してくれるだろう。


「私は……」


 これ以上、御伽を追い詰めることは出来ない。


 この前みたいに感情的になられても困るし、何よりも僕の心は少しもスッキリしない。やはり御伽に復讐したところで、意味がないと理解した。


「ただ、弟を守りたくて……」


 御伽は自分が何を守っていたのかも、わかってはいない。目の前にいる僕に気づけないのは、そういうところがあったせいだ。


「御伽さん?」


「頭が痛い……」


 急に御伽が頭をかかえて、苦しそうな声を出した。


 何が起きたのかと思ったけど、前にも似たようなことがあった。御伽が失敗をして母親に責められていた時に、頭を抱えて苦しみ始めた。


 僕が手を伸ばすと、御伽が腕を握り返してきた。


「結莉は、あまり琴吹さんに似てないね」


 僕は御伽の手を振り払った。


「……」


 いったい何を言っているのかと思えば、マキが僕を妹だと断言していたことを思い出した。


 あれからマキが発言を撤回したとは考えられない。御伽が勘違いをしたままなのだとしたら、少しややこしい話しになるかもしれない。


 正しい返答がすぐに思いつかず、誤魔化すようにケーキに手をつけた。フォークを使って、口に運ばれたケーキ。口内で独特の味を感じて吐き出しそうになる。


「もう帰ってください」


 それを何とか飲み飲んで、ようやく伝えたい言葉を口にすることが出来た。


「やっぱり、殴ったことまだ怒ってる?」


「怒ってないです」


「じゃあ、どうして。そんなに私を嫌うの?」


 マキが嫌っているから、自分も嫌い。


 そんなものは言い訳で。本当の理由はもっと根深いもので。簡単に解決出来るような問題ではなかった。


「そうやって、相手の気持ちを本当に理解しようとしないところが嫌いなんです。何度も嫌だって言ってるのがわからないですか?」


「……」


 ようやく御伽が黙った。


 決して御伽と交わした会話は多くなくとも、何年も一緒の時間を過ごせば多少は御伽の本性が見えてしまう。


 御伽は母親の望む娘であろうとする。


 僕は御伽を例える言葉が思いつかなかった。けれども、今なら御伽のあり方を示すのに最適な言葉があった。


 御伽は母親の道具だった。


 母親の言葉を信じて疑わない。母親の言葉が真実であり、他人から与えられるモノを信じない。母親の言葉に従い、僕の言葉は無視をする。


「ねぇ。結莉」


「……っ」


 名前を呼ばれて振り向こうとした時。御伽の顔が目の前に迫り、そのまま体をソファーに押し倒された。


 両腕を掴まれて、身動きが出来なくなる。手に持っていたフォークは手の中から抜け落ちて、床の上を跳ねた。


「お姉さんのこと。好き?」


 御伽の質問。答え。僕はマキのことが好きだ。


 だけど、御伽を前にして、僕は言葉が出ない。


 まるで御伽の質問が、マキではなく御伽自身に向けられている気がして不気味だった。


「ねぇ。結莉は──」


 御伽の言葉を遮るように、リビングの扉が開いた。


「……っ!」


 扉の向こうから現れた人物は、僕達を見るなり動き出した。


「マキッ!」


 どうして、マキがこんなにも早く帰ってきたのか。


 帰るのは夕方と聞いていたせいで油断していた。


「結莉になにしてるのよッ!」


 マキは駆け出した勢いのまま、御伽の体に飛びかかった。御伽は対応することが出来ずに僕の体から引き離されて、床に転がった。


 御伽はすぐに立ち上がったが、マキに追撃をされる。そのまま、二人は庭に出る窓ガラスを突き破り、外に落ちて行った。


 急いで駆け寄ろうとすれば、散ったガラスが僕の足裏を貫く。だけど、僕が痛みに耐えられたのは姉達が本気で喧嘩をしているからだ。


「二人ともやめて!」


 まだ二人は取っ組み合いをしている。どちらかが押さえつけようとすれば、歯を突き立て、髪を引っ張り、暴力で相手を負かそうとしている。


 けれど、暴力で勝ったのはマキの方だった。


 マキは御伽の体に馬乗りになる。マキが何処からか取り出したケータイ電話を握りしめ、御伽の顔に叩きつけた。


 しかし、御伽は顔に当たる寸前でマキの腕を掴んで勢いを抑えた。暴れるマキを必死に押さえつける御伽の姿に余裕なんてない。


 止めないといけない。僕は動き出してマキの背中に飛びついた。だけど、マキが本気であることを証明するように僕一人の力では腕一つ抑えることが出来なかった。


「お願い!マキやめて!」


 いくら頼んでもマキは止まらない。


 マキは御伽の首に手を掛け、そのまま握り潰す。


 御伽の口からは言葉にならない声が漏れだし、マキの腕を爪で掻きむしりに必死に引き剥がそうとしていた。


「マキ……」


 御伽が死んでしまう。


 そう考えた時、僕は恐ろしくなった。


 マキから離れ、僕は逃げ出した。


 僕は何も悪くない。


 僕のせいじゃない。


 僕は何も。


 僕は。


「お姉ちゃんから離れろッ!」


 何故、僕は選んでしまったのか。


 玄関に置いてあったバットで僕は『マキ』を殴った。


 当たりどころが悪かったのか、立てた棒を倒すようマキの体は地面に向かって倒れた。


「……」


 世界に訪れたのは静寂ではなかった。


 御伽が短い呼吸を繰り返して、息をしている。御伽の首にはマキの爪が残した、生々しい傷痕が残っている。


「なんで、僕は……」


 もう、何もかも終わりだった。


 マキを殴ったこと。御伽を姉と認めたこと。


 自らの手で、僕は居場所を壊してしまった。


「結莉……」


 名前を呼んだのは、御伽の方だった。


 もう僕には御伽から逃げる気力は無かった。御伽は地面を這いずり、僕に近づいてくる。僕は受け入れるように御伽の曖昧な体を支え、抱きしめられる。


「大好き。愛してる」


 ただ、優しく。深い沼に沈む感覚。


「帰ろうか。私達の家に」


 僕はもう。御伽から逃れられない。

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