第15話。御伽の家族

 灰色の空から、雨粒が僕に向けて落ちてくる。


 この雨は、あの家から逃げ出した日のことを思い出す。何日も降り続いた雨に熱を奪われ、冷えきった体を震わせていた。


 そんな僕を拾ってくれたのは竜胆りんどうさんだった。竜胆さんとの生活は不満もあったけど、竜胆さんやマキのいる家は僕にとって、大切な居場所だった。


 なのに、僕は逃げ出してしまった。


 初めから、僕は竜胆さんに関わるべきではなかった。僕が幸せになるほど、誰かが不幸になる。マキは幸せになるべき人間だ。幸せの為に僕は邪魔な存在でしかない。


 けれども、いずれ僕の心は弱り、竜胆さんの家に向かい始めるのだろう。弱い自分のことは僕が誰よりも理解している。


 頭の中のモヤモヤが、溢れ出して頭が爆発してしまいそうだ。体と心の在り方がズレ始める。歩き続けた足は止まることなく、僕は横断歩道を渡っていた。


 赤信号。


 目の前に迫る車両。


 僕は苦痛から解放される為に、選択をした。


「さよなら。マキ」


 もう自分では避けられないと理解した。


 初めから避ける気もなかった。


 しかし、僕の体は誰かに抱きしめられた。同時に僅かな浮遊感を味わい、衝撃と共に濡れた地面を転げた。


「誰……」


 熱い。冷めた体に彼女の熱が酷く伝わる。僕が求めていた熱を彼女が持っている。だけど、ソレはマキとは違う人間。僕の中にはまだ拒絶する感覚があった。


 彼女は僕から離れる。彼女は顔を合わせないまま、ゆっくりと起き上がると、足を引きずるようにして雨の中に消えていってしまった。


 僕は地面に倒れたまま動けない。だけど、その姿を見て、僕は一つの考えが浮かんでいた。




 僕は自分の家に帰ってきた。


 玄関の扉には鍵が掛かっておらず、あの日僕が逃げ出した時から何も変わっていない。


 家の中は重たい空気に満たされ、明かりの差し込まない空間は違う世界に足を踏み入れたようにも感じさせる。


御伽おとぎ……?」


 奥の部屋に入った時、床に倒れている御伽の姿を見かけた。すぐに駆け寄り、声を掛けようとすれば御伽が小さく呼吸していることに気づいた。


「あれ……結莉ゆうり?」


 御伽は僕の腕を掴んできた。


「本物……?」


「偽物なんていないよ」


「どうして。帰ってきたの?」


 それは僕にもわからなかった。


「御伽のこと、心配になって……」


 それは嘘だ。他に行くあてがなかっただけだ。


「そっか……そう、なんだ……」


 御伽が少しづつ体を起こす。けれど、御伽は倒れそうになり僕の体に寄りかかった。


 その時、御伽がやせ細っていることに気づいた。あきらかに以前よりも体重が減っており、まともに食事を取っていないようだ。


「結莉。一人にしないで……」


 以前の御伽は、もういない。この短い期間で何があったのか。御伽も僕と同じように逃げた先で答えを見つけたのかもしれない。




 それから散らかっていた部屋を片付けた。御伽はソファーに寝たきりで、薄らと目を開けているだけだったけど、生きてはいる。


「御伽。足は大丈夫?」


「わからない」


 御伽と僕を跳ねた車は、一度は近くに止まっていたけど。すぐに走り去ってしまった。


 御伽の状態次第では、対応するべきことだとわかっていたけど。今の御伽を一人にするような状況はあまり作るべきではなかった。


 それに御伽がまた不安定になれば、以前のようになるかもしれない。


「御伽。今の御伽なら、僕は一緒にいてもいい。だけど、またお母さんの真似をするなら、僕は家を出ていく」


「結莉。そんなにママのことが嫌い?」


「大嫌いだよ」


 母親は死んだ。父親も行方不明だ。


「ママのご飯が食べたい……」


「……」


 僕は勘違いをしていたのかもしれない。


 御伽が母親の真似をしていたのは、失った悲しみをごまかす為で。僕を監禁したのも、本当は一人になりたくなかっただけ。


 そう考える方が、今の御伽の状態も納得が出来るような気がした。


 母親が死んだ時。僕は泣くことはなかった。


 何度も、母親がいなくなればいいと願ったこともあったけど。実際にそうなった時。僕の心が満たされることはなかった。


「ねぇ。結莉」


 御伽の傍を通った時に、腕を掴まれた。


「なに?」


「どうして。帰ってきたの?」


 同じ質問。でも、同じ答えを御伽は望んでいない。


 これまでのことを全部御伽に話すことにした。竜胆さんに拾われてから、最後に僕の正体がバレてしまい、そして、さまよっていたところまで。


「……」


 話を終えると御伽が体を起こした。


「くだらない話だった」


 御伽の雰囲気が少しだけ昔に戻った気がする。


「私の人生の方が何倍もくだらないけど」


「そういえば御伽……学校に行かず何してたの?」


 この部屋の様子からして、ずっと家は空けていたようだし。


「ずっと知り合いの家に居た」


「知り合い……?」


「うん。まあ、昔の友達と言う方が正しいかも」


 御伽が行方不明になっていた時期を考えれば、それなりに長い時間滞在をしていたのか。姉弟揃って家出をするなんて、酷い話だと笑われても仕方がない。


「じゃあ、どうして。今日はこの家に帰って来たの?」


「ちょっと、喧嘩したから」


「喧嘩?」


 御伽が両腕を広げる。まるで僕に寄ってこいと言わんばかりの体勢。おとなしく近づけば、御伽は僕の体を抱きしめてきた。


 御伽の心臓の鼓動を感じる。それは普通とは違っているように思えた。御伽が感じている焦りのようなものが僕にも伝わってくる。


「寝てる時に。襲われたの」


「え……?」


 小さな声でも確かに聞こえた。


「未遂だった。でも、目を覚まさなかったら、私の体は穢されていた」


 僕は、その意味を知っている。


「私、怖くて。何も言えなかった。彼はヘラヘラして許してほしいなんて言ってたけど。私は、そのまま逃げ出した」


 御伽が僕の体を強く抱きしめる。


「結莉。一方的な感情の押し付けって、あんなにも気持ちが悪いんだね。今の私なら、結莉が逃げた理由がわかるような気がする」


「御伽……」


 僕は御伽に感情の理解をして欲しかった。だけど、神様はいつもやり過ぎだ。何かを得る為に失うモノがあまりにも大きすぎて、後悔ばかりが残ってしまった。


「もう私は間違えない」


 僕と御伽は少しだけ、家族に戻れた。




「僕の寝る場所どうしよう……」


 母親の部屋は使えない。一度、確かめてみたけど僕の閉じ込められていた部屋よりも少しマシな程度。絵の具やペンキをぶちまけたのか、床や壁、家具までも赤く染まっており、酷い臭いがする。


「私の部屋。使っていいよ」


「でも、それだと御伽の寝る場所が……」


「一緒に寝ればいい」


 思い返せば、僕が御伽の部屋に入るのは初めてのことだった。御伽の部屋に足を踏み入れた時、僕は思わず、後ずさりをしてしまう。


 部屋の真ん中に、布団が置かれているだけの部屋。それは、僕が竜胆さんの家で見た、マキの部屋とよく似ている。


 母親に監禁されていた僕は御伽に多くの知識を与えられていた。だから、ここが普通の部屋じゃないことはわかるし、マキの部屋と似ているのが気のせいだとは思わない。


 御伽が布団に寝転がったのを見た後、僕は御伽の隣に座り込んだ。


「御伽は、マキ……琴吹さんとは仲が悪いんだよね?」


「それなりに」


 御伽は背を向けながらも答えてくれる。


「いつから仲が悪いの?」


「いつから……そういえば、いつからだろ」


 もし、本気で嫌っている相手なら、関わりすら持たないはずだ。御伽がマキに突っかかったのは、何か理由があるような気がした。


「始めて琴吹さんと出会ったのは、小学生の時。最初は仲が良かったけど、ちょっとしたことで喧嘩をして以来、今の状態」


「ちょっとしたこと?」


「私が口を滑らせたのがいけない。琴吹さんに結莉のことを言ってしまったから、会いたいって迫られた」


「なんで、僕なんかに……」


 その時、僕は母親に監禁されていたはずだ。マキに会ったことはないし、何らかの連絡手段を持っていたわけでもない。


「消えてしまった弟を探してる。そんなバカバカしいことを言っていた」


 御伽はマキの言葉を告げる。


「私としては、結莉の存在を誰かに知られるわけにはいかない。結莉のことを探ろうとしていた琴吹さんを私がボコボコにして止めた」


 子供同士の喧嘩なら、話し合いより暴力の方が解決に繋がるのだろうか。今でも不仲なのは続いているようだけど。


「マキって喧嘩が強いイメージがあったけど」


「うん。強いと思うよ。次の日、私は琴吹さんに椅子で殴られたから」


 御伽の話を聞いて、簡単に仲直り出来るような出来事でないと分かった。マキは自分が敵と認識した相手には容赦しない。それは今も昔も変わらない。


「御伽?」


 御伽は話し疲れたのか、もう眠っていた。


 僕も横になり、御伽に背を向けて眠ることにした。


 だけど、隣に誰かがいるのに僕は眠ることが出来なかった。マキや竜胆さん、二人と眠った時にはずっと得られなかった快眠が得られたのに、今は眠気が行方不明だ。


 そう。僕は孤独を感じている。


 僕は体を動かして、御伽の体に手を伸ばした。御伽の背中に顔を当て、体の熱を確かめるように抱きしめる。


 どれだけ御伽に触れても、僕の心が不安定になることはない。僕にとって、御伽はたった一人の姉であり、最も恨むべき存在。


「……っ」


 僕は御伽の体を動かした。


 御伽の体に跨り、御伽の細い首に手を伸ばす。眠ったふりを続けているのか、僕は指に力を入れても御伽は目を覚まそうとはしない。


「今さら、家族になんて戻れない……」


 僕が家に戻って来た、本当の理由。


 それは僕と同じように未来を見失っている御伽を殺す為だった。御伽にとって、生きる理由であった母親は既にいなくなっている。


 だったら、僕の復讐と重ねて御伽を殺せば、誰も不幸にはならない。そう考えていた。


「御伽。どうして、何も言わないの」


 だけど、僕は御伽の息の根を止めることが出来なかった。僕の手が離れると、閉じていた御伽の目がゆっくりと開き、憐れむような視線を向けてくる。


 もしかしたら、御伽は自らの死を望んでいたのかもしれない。


 なのに、僕は御伽の願いを叶えられず、復讐も成し遂げられない。中途半端な僕を御伽は憐れんでいる。


「御伽のせいなのに……御伽が悪いのに……」


 御伽が体を起こして、僕を抱きしめてくる。マキとは違って、その力は弱々しい。御伽の僕に対する気持ちが現れている気がした。


「結莉。辛いこと、忘れさせてあげようか」


 僕は御伽に溺れていく。辛いことも悲しいことも御伽が忘れさせてくれる。ただ、御伽と快楽に満たされることで、酷い夢を見なくても済む。


 もう、後戻りは出来ない。


 これでようやく、本当の家族になれる気がした。

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