第13話。雛鳥の約束

「あらあら」


 テーブルの上に滴り落ちる赤い液体。大量の出血とは言えないけど、その光景だけを目にすれば大怪我をしたようにも見える。


竜胆りんどうさん!」


 マキのフォークが貫いたモノは夏芽なつめではなかった。竜胆さんが差し出した手。その手のひらを突き刺し、裂かれた皮膚から血を流していた。


結莉ゆうりくん。私は平気ですよ」


 だけど、竜胆さんは取り乱した様子は見せず。マキの手放した刺さりっぱなしのフォークを引き抜いていた。


 僕は咄嗟にマキの体に飛びついて、夏芽から引き離すことにした。でも、思ったよりも簡単にマキの体を引っ張ることが出来た。


「夏芽。今日は帰ってくれない?」


「あ、ああ……すまなかった」


 夏芽は竜胆さんの怪我を心配しながらも、この場から離れることを優先した。テーブルの上には残されたお金が、ただ虚しく、そこにあった。


「竜胆さん。怪我は……」


「だから、平気ですよ」


 竜胆さんはおしぼりで手を押えていた。


「お母さん。ごめんなさい」


 マキの弱々しい声が、聞こえた。


「でも、あの人は……私のお父さんじゃないわ」


 マキの体が僕に寄りかかってくる。


「別に、アナタには。あの人を父親として受け入れろとは言わない。だけど、今回みたいなことを何度も繰り返すのは、とても。迷惑よ」


 竜胆さんは、テーブルの血液も拭き取っていた。まるでマキの行動が予測出来ていたかのように、落ち着いている。


 竜胆さんが証拠隠滅をした頃には料理が運ばれてきた。だけど、一人分の料理が空の席に置かれてしまった。


「竜胆さん、ごめんなさい」


「どうして、結莉くんが謝るんですか?」


「マキを止められなかったのは、僕が過信していたからです」


 今回のこと、マキには既に僕と竜胆さんが仕組んだと気づかれている。だから、わざわざマキに隠す必要なんてない。


「私は言ったはずですよ。結莉くんには期待していないと」


「でも、竜胆さんの怪我は……」


「これをやったのはマキですよ」


 竜胆さんはおしぼりを手に当てたまま、運ばれてきた料理を口にしていた。マキは反省をしているのか黙ったまま俯いていた。


 あんな生々しい光景を目にして、食欲が湧くわけもなく。三人分の食事は手をつけられないままだった。


「マキ。なんで言うこと聞いてくれなかったの?」


 僕はマキを信じてたのに。


「あの男が、三人で暮らすなんて。くだらないことを言ったからよ」


「それの何が問題?」


「三人だと、結莉がいないわ」


 僕はもう。竜胆さんの傍から離れる未来なんて考えられない。僕にとって。何事もない日々こそが幸せで。そこにマキがいてくれるから、他の世界から目を背けることが出来ているのに。


「それは、あの人が僕の事情を知らないからでしょ……」


「事情を話したところで。見知らぬ子供と一緒に暮らすなんて、発想が浮かぶかしら」


 僕の曖昧な立ち位置をマキはよく考えてくれている。だけど、マキが悩まなくても、竜胆さんがいれば、僕の問題なんて気にすることじゃない。


「マキは、産まれてくる子供に父親は必要だと思わないの?」


「私にも父親はいないわ」


「それは……」


 マキは僕の質問にはハッキリと答えてくれる。竜胆さんが杞憂していた過去すら、マキにとっては禁句ではなかった。


「もし、お母さんが誰かと再婚するのなら。私は結莉を連れて家を出ていく。もし、結莉がお母さんを選んだとしても、私は家には残らないわ」


 わざとらしく、食器の鳴る音が響いた。音を出したのはマキではなく、竜胆さんの方だ。食事の為に動かしていた手を止めて、マキに優しい笑顔を向ける。


「じゃあ、私と取引しましょうか」


「取引……?」


 一度、竜胆さんが僕の顔を見た。


「これから夏芽と四人一緒に暮らしてもらう。もし、赤ん坊が産まれるまで夏芽を傷つけずにいられたら、結莉くんはアナタの好きにしていい」


 竜胆さんがマキに僕を託す。しかし、その前提となる条件。先程の光景を目にした僕にしてみれば、到底マキが我慢出来るとは思えなかった。


「お母さん。少し、私のこと甘く見すぎよ」


「答えは?」


「いいわ。その条件で構わない」


 マキが竜胆さんの提案を受けた。


 竜胆さんは荒療治でもするのだろうか。マキは自らの感情を抑え、僕を手に入れる為に竜胆さんとの約束を果たす。


「マキには無理だよ」


 そんなマキの無謀な行いに。


 僕は本心を口にしてしまった。


「いいえ。本気であることを証明して、結莉に私を選ばせてみせるわ」


 竜胆さんは僕を条件に入れていた。だけど、マキは無理やり僕を連れていく気はないのだろうか。それはさっき言ってた通りだし、マキの言葉に違和感は無かった。




「竜胆さん」


 マキがトイレに行っている間に、僕は竜胆さんに声を掛けた。


「これが竜胆さんの望んだ結果ですか?」


「いいえ。まだ、途中です」


 竜胆さんの求める結果。子供に父親を与えることが目的だと思っていたけど。竜胆さんの見据えている未来は、もっと別の何か。


「もし、マキが。万が一にでも夏芽さんを殺してしまったら、竜胆さんはどうするつもりなんですか?」


「あの子が夏芽を殺してしまったら。私が夏芽を殺したことにすればいいだけです」


 竜胆さんはマキが夏芽に手を出さないとは考えていない。もし、マキが夏芽が手を出した場合、その罪は竜胆さんが背負うことになる。


 竜胆さんが捕まり、居なくなれば。僕の居場所は無くなってしまう。マキなら僕と一緒に居てくれるだろうけど、正体がバレてしまえば終わりだった。


 つまり、マキが夏芽を殺すなんて馬鹿げた話は絶対に許されない。竜胆さんも分かっていて答えているだろうし、僕に負担がまったく無いことはなかった。


「それにマキが約束を守ったら。僕のことを渡すつもりなんですか?」


 竜胆さんは、マキが戻ってこないことを確認した。


「あの子は、約束を守れませんよ」


「そこまで言いきれる根拠があるんですか?」


「夏芽が何度、あの子に襲われそうになったか、知ってますか?」


 僕が知っているのは二回だけ。


「結莉くんが家に来る前。あの子が夏芽に怪我を負わせたことがあるんですよ」


 それは初耳だった。


「夏芽はあの子のことを許している。けれど、マキが夏芽に対して暴力的な感情を抱いているのは今も変わりありません」


「どうして、夏芽さんだけ過剰に……」


 男性なら、外を出歩いていてもマキの視界に入るはずだ。だけど、マキは理由もなく人に暴力を振るったりはしない。


「マキが夏芽に怪我を負わせた日。私と夏芽はちょっとした喧嘩をしていました」


「喧嘩……?」


「思い出話から始まった、本当に些細なこと。夏芽と言い争いになってしまって、つい強い口調になってしまった」


 竜胆さんが感情を荒らげるなんて珍しい。これまでに竜胆さんが怒ったところなんて一度も見たことがなかった。


「それを、あの子が勘違いしたんですよ。部屋に飛び込んできたあの子は、夏芽に暴行を加えた」


 マキにとっては、あの日。竜胆さんと父親が喧嘩をしていたことを重ねていたのかもしれない。


「よく、夏芽さんは許してくれましたね」


「夏芽は、お人好しですから」


 僕には理解出来ない。マキとずっと一緒にいる僕ですら、マキの暴力には恐怖を感じる。なのに、何度マキに暴力を振るわれても、夏芽さんは平然を装っている。


「それだけで……」


 不意に視線を逸らした時、近くの席に視線を向ける。そこに座っていた人物に見覚えがあった。


「竜胆さん。あの人」


 竜胆さんが顔を向けると手を振った。すると、その人物だけが立ち上がり、僕達の席に近づいてきた。


「偶然ですね。はい」


 それはマキの学校に居た美和みわ先生だった。


 美和先生は学校の時とは違い、緩い感じの服を着ていおり。部屋着のようにも見えた。


「偶然じゃないでしょ。美和」


 竜胆さんが敬語を使わない相手。それはマキのように対等である存在ではないのか。


「美和。今日、夏芽といたでしょ」


「そうですね。はい。今日は夏芽と飲むつもりでした。なのに、竜胆に呼び出されたから食事に行くと言われたです」


「どうして、一緒に来なかったの?」


「私、空気が読める女です。はい。夏芽と竜胆の仲を取り持つ方がいいかと」


 夏芽と美和先生も繋がりがあったのか。


 会話の内容的には美和先生と夏芽が仲が良さそうに聞こえるけど。それを聞いても竜胆さんが気にしている様子はなかった。


「何を言ってるの?私と夏芽は仲良しよ」


「その割に再婚まで時間がかかってます」


「あの子が中々折れないから。こうして場を強引に設けたのよ」


「なるほどです」


 美和先生が僕の顔を覗き込んでくる。マキとは違って、美和先生の視線からは何も感じない。まるで何も考えていないような、拍子抜けする表情。


「思い出しました。はい。その顔」


「僕の顔が何か……?」


「確か大学のサークルに居た時に、似ている人を見たような気がします。はい。あまり、その人とは話したことはないですけど」


 美和先生はいったい何を言っているのか。僕が尋ねるとする前に、美和先生の視線は竜胆さんに向けられていた。


「竜胆と同じ部屋の子じゃなかったです?」


「さあ。覚えていないわ」


 竜胆さんは興味も無さそうに答えた。


「うーん。竜胆が覚えないなら私はこれ以上思い出せないです。はい。では、私はこれで失礼」


 僕から離れた美和先生は先程まで座っていた席に寄ると。そのまま店の出入口の方に歩いて行った。


 まるで台風でも通り過ぎたように一瞬の出来事だったが、僕は一つだけ竜胆さんに聞きたいことがあった。


「あの、竜胆さん」


「どうしましたか?」


「竜胆さん達のサークル……って何をしてたんですか?」


「ちょっとした人助けですよ。ただの仲良しサークルとでも思ってください」


 大学のサークルの在り方について僕は詳しくは知らない。部活と似たようなものだろうか。


「じゃあ、同じ部屋の子っていうのは誰ですか?」


「覚えていません」


「……その人は律香りっかって名前じゃないですか?」


 竜胆さんの顔に変化はなかった。


「結莉くん。何をそんなに怯えているんですか?」


 竜胆さんが立ち上がり、僕の隣に来る。壁際に追い詰められ逃げられなくなる。竜胆さんの手が僕の頬に触れてくる。


「竜胆さんは……本当は何がしたいんですか?」


「ふふ。もうすぐ、わかりますよ」


 僕の選択は本当に正しいのだろうか。


 目の前にいる得体の知れない存在。まるで竜胆さんは人の皮を被った悪魔のようだ。きっと、いつの日にか僕は代償を払わされる。


 頭で理解しながらも、僕は竜胆さんを否定することが出来なかった。何を犠牲にしなければ、僕は手に入れることが出来なのだから。

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