第4話。雛鳥の学校
「ここは……」
深い眠りから目を覚ました時、見慣れない場所にいることに僕は一瞬だけ戸惑った。だけど、昨日の出来事が夢でなかったことを自覚すると、自分がマキの部屋で一緒に眠ったことを思い出した。
僕の体に乗っているマキの腕。ずっと、僕のことを抱きしめていたのか。触れている場所が熱を持っている。
今なら、もう一度眠れそうな気がして、目を閉じた。だけど、鼓膜に伝わる僅かな振動。意識がはっきりすると、隣でもぞもぞ動いている存在に気づいた。
「ごめんなさい。起こしたかしら?」
マキが目を覚ました理由は想像出来た。
「……学校?」
「そうよ。私は学校に行かないといけないの」
カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。僕が早起きをする理由はなかったけど、とりあえず体は起こした。
「なっ……」
僕が居るにも関わらず、目の前でマキが着ていた服を脱ぎ始める。突然のことで思わず、驚きそうになったけど、変に反応するのは怪しまれる。
目を逸らさないといけないのことなのに。マキの姿に魅力される。長い髪の隙間から見える、骨の浮き上がった傷一つない綺麗な背中。
触れてみたい。強烈な欲求に支配された僕は手のひらをマキの肌に沈ませてしまった。
それは想像とは違って、冷たくて柔らかい。もし、マキが許してくれるなら、永遠と触っていたいと思える感触だった。
「
「あ、ごめん……」
どうして、マキに触れようと考えたのか。異性の裸を見る機会は何度もあったはずなのに、他人であるマキの方が何倍も僕の心は突き動かされた。
幸い、マキが怒ったりしないからよかったけど。やっぱり、人に触られるのは嫌だろうか。
「ああ、別に触ったらダメとは言ってないわ」
僕が謝ったことを気にしたのか、マキが言葉を伝えてくれる。今の僕なら、マキの体に触れることは許されるようだ。
「結莉。私が学校に行っても寂しくないかしら?」
「え……」
寂しさなんて感じていない。
「結莉が寂しいのなら。私、休んでもいいわよ?」
「……別にいい。寂しくないから」
「そうなの?ならいいけど」
マキは制服に着替え終わると、床に置いてあった鞄を拾い上げた。
「朝御飯。食べに行こ」
「朝御飯?」
「お母さんなら、もう作ってくれてるわ」
部屋から出て、向かった先は一階のリビング。扉を開けると、
「二人とも。おはよう」
これが、この家の日常風景なのだろうか。竜胆さんとマキ、食卓には暖かい朝食が並べられ、それなりの平和が感じられる。
椅子に座ってはみるけど、あまり食欲がないのは昨日のことがあるから。けど、せっかく用意してくれた食事に手をつけないのは、居候としては許されない。
「いただきます」
味噌汁を口にしてみても、まだ味覚が完全には戻っていない。味のないお湯を飲んでいるみたいで、美味しいとは思えなかった。
マキは完全に黙ってしまうし、竜胆さんも黙々と箸を進めていた。会話の無い時間は、僕が作り出したのか。
本当に窮屈な食事だった。
「結莉くん」
マキが学校に行ってから、僕が一人でテレビを見ていると。隣に竜胆さんが座ってきた。
「これ、結莉くんの荷物です」
足元に置かれたのは旅行くらいは行けそうな鞄。竜胆さんが鞄を開けると、中には服が詰められていた。
「出て行けと言ってるんですか……」
「違いますよ。結莉くんを預かっているのに、荷物がないのはおかしいでしょ?」
それもそうだ。
「わざわざ買ってくれたんですか?」
「いいえ。新品ばかりだと使用感がないので。知り合いから借りてきました」
知り合い。竜胆さんの友人と言うことだろうか。
しかし、予想通りと言うか。服は全部女物だった。おまけに下着までも用意されている。
「結莉くん。まだ下はズボンを履いてますよね?」
「……履き替えないとダメですか?」
「勘だけなら、あの子は私よりも鋭いですから。不安な要素は取り除いておきたいんです」
竜胆さんが真剣だからこそ、僕は断り切れなかった。竜胆さんから手渡された、女の子が履くような下着。
恥じらいとは別に、洗濯されているとは言っても、他人が使っていた物を自分が使うのは抵抗があった。
「結莉くんが嫌なら、それなりの物を買ってきますよ?」
「……」
竜胆さんの言っていることは理解出来るし、なるべく、わがままは言いたくない。
「大丈夫です……」
「それじゃ。マキが帰ってくるまでに、今履いてる物は私に渡してくださいね」
学校の終わる夕方にはマキが帰ってくるだろうか。念のため、早めに着替えておいた方がいいかもしれない。
自分の部屋がないから、着替える場所は洗面所。竜胆さんは「ここで着替えてもいいんですよ?」なんて、言っていたけど、決まった場所以外で服を脱ぐことに抵抗があった。
鏡の前。ワンピースを着たままズボンを下ろす。竜胆さんに渡された下着は布状。小さい頃、履いていたパンツと似てはいるが、手触りと言うか、何かが違って見えた。
「……」
身につけてみれば、あっという間にワンピースの裾で見えなくなる。これなら他人から見られることもないだろうし、少し見られる程度ならマキにもバレない。
「結莉くん」
リビングに戻ると、竜胆さんに声を掛けられた。
「これ、付けてみませんか?」
竜胆さんが手に持っていたのは長い髪のカツラだった。
「それも、必要なことですか?」
「うーん。実は困ったことがありまして」
竜胆さんが向けた視線の先には弁当箱が置かれていた。大きさ的にはマキが食べる物だろうか。しかし、それがここにあるのはおかしな話だった。
「あの子がお昼を食べられなくなってしまいます」
わざとらしく竜胆さんが言っているようにも聞こえるけど。実際に弁当箱を忘れたのはマキの方だ。
「つまり、僕が持っていくと……」
「はい。でも、大丈夫ですよ。学校までは私が車で送ってあげますから」
竜胆さんが僕の頭にカツラを被せてくる。
「万が一を考えれば、と思いまして」
「変じゃないですか……?」
僕の問いかけに竜胆さんは微笑む。
「いいえ。似合ってますよ」
その言葉を、疑う余地はない。
「それじゃあ。駐車場で待ってますから。遅くなっても、構いませんよ」
家で竜胆さんに軽く化粧をされたすぐあと。竜胆さんの運転する車でマキの学校まで行くと、弁当箱の入った鞄を渡された。
「こういうこと、よくあるんですか?」
「と、言うと?」
「マキが弁当を忘れることです」
「それは、本人に聞いてみてください」
投げやりな返答に戸惑う。けれど、竜胆さんから聞いたマキの休み時間には限りがある。
「あの、このまま入っても大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですよ。一応、知り合いの子には連絡してるので、もし何かあったら
美和先生。竜胆さんには孤高のイメージがあったけど、人付き合いは想像よりもあるみたいだ。
車から降りて入口に向かって歩く。正面玄関から入れば、来客用のスリッパあって、そのままマキの教室に向かって行く。
廊下ですれ違う、制服を着た女の人達。もう休み時間なのだとしら、急ぎたいところだけど、何か違和感を覚えてしまう。
男の人がまったくいない。
「あ、ここ……」
竜胆さんに言われた通り、三階の教室にたどり着いた。ゆっくりと、中を覗き込んでみると、やはり男の人は見つけられない。
もしかして、男の僕が立ち入ることがダメな場所ではないのだろうか。そう考えると怖くなって、思わず、後ずさりをしてしまう。
「おっと、危ない」
軽い衝撃。そして肩を掴まれる。
「ご、ごめんなさい……」
「なに、この子。めっちゃ可愛くない?」
「ほんとだ。誰かのお子さん?」
「いやいや、どう見ても妹でしょ」
知らない人達に囲まれてしまった。
「どうしたの?迷子?」
「あの……その……」
マキが気づかないと言っても、他の人なら気づく可能性があった。だから、会話を避けたいのに、なんだか既に逃げ場が無くなっていた。
「……マキ」
ただ、僕は一言。呟いた。
「ちょっと」
「うわっ。どうした、マーちゃん」
僕の肩から腕は離れた。だけど、すぐに教室から姿を現したマキに体を引っ張られ、正面から抱きしめられてしまう。
「あれ、もしかして。その子って、マーちゃんの妹?」
「そうよ。私の妹」
こんな格好をしていても、マキは僕のことを見抜いていた。妹ではないけど、今はそういうことにした方がいいかもしれない。
身長差があるせいで、抱きしめられるとマキの肩よりも少し下に頭が押さえつけられる。
だから、呼吸をすると、マキの匂いがよくわかる。汗の臭いを消す為だろうか。消臭剤の甘い香りが、鼻を刺激する。
「それで。結莉、どうして来たの?寂しくなったのかしら?」
「あ、そうだった」
手に持っていた弁当箱の入った鞄をマキに見せつける。
「……あらら。私、忘れてたのね」
どうやら、弁当箱は素で忘れていたようだ。竜胆さんも慣れているみたいだし、何度か同じことがあったのかもしれない。
「結莉、ありがとう」
ますますマキに抱きしめられる。
「マーちゃん、妹にはデレデレなんだね」
「そうよ。私、結莉のことが大好きですもの」
妙にマキには懐かれてしまっているけれど、少しばかり過剰な気もする。マキにとって、妹の存在って、そんなに大事なものなのだろうか。
でも、妹になってくれるのなら、きっとマキは誰でもよかった。だから、僕はマキのことを完全には信用出来ない。
マキから離れようとした時、視界の端に映る人物を目撃した。咄嗟に僕はマキの体に顔をうずめた。
「……っ」
体の震えが止まらない。
近づいてくる。
僕にとっての『神様』が。
すぐそばまで。
「
「何か用?」
マキの様子が変わった。僕に向けられる声に比べて、今のマキが発する言葉は攻撃的だった。僕とは関係なく、マキと彼女の間に何かがあったのだろうか。
「その子、どうしたの?」
「別に。すぐに帰るから気にしないでいいわよ」
間違いない。僕は彼女を知っている。
こんな姿でなければ、相手も僕の存在に気づいて当然だ。だからこそ、必死にマキの体で顔を隠して騙し通そうとする。
「ねぇ、琴吹さん。その子、学校に通ってる時間じゃないの?」
「そんなこと。アナタには関係ないでしょ」
「何、その言い方」
「私の家の問題に、どうして無関係のアナタが口出しするのかって言ってるのよ」
マキの発した言葉で彼女は黙ってしまったようだ。彼女にしてみれば、マキの言葉は否定出来ないほど正しく聞こえ、自分が簡単に踏み込めないと自覚させられた。
「まったく、言い返せないなら最初から絡んで来ないでほしいわ。ああ、それとも私に構ってほしくて話しかけてきたの?なら、ごめんなさい。気づかない私が悪かったわ」
「琴吹さん。人を煽るなら言葉を選んだ方がいいよ」
「あら?煽られたように聞こえたのかしら?随分と自意識過剰なのね」
「琴吹さんほどじゃないよ」
どちらも同じくらい口が悪い。だけど、先程のマキの様子からしても、誰彼構わずに敵対をしているわけじゃないと思うけど。
「目障りだから、私の前から消えてくれない?」
「言われなくても消えてあげる」
彼女は離れて行ったみたいだ。
まるで台風が通り過ぎたようだ。
すべてが終わりマキが僕を離そうとするけど、僕はマキから離れなかった。まだ消えない恐怖が、温もりを失うことを恐れていた。
マキは僕の頭を撫でてくれる。
このマキの優しさは僕にとっては『偽物』だからこそ、期待をしなくても済む。だけど、少しだけマキを信じていいと思えた。
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