第2話。竜胆の雛鳥
台所で
でも、本当に僕の記憶は正しいのだろうか。そんな母親の姿を一度も見たことはなかったはずなのに。
「
「はい」
「手伝ってみますか?」
「え、あ、はい」
何もしてないと嫌なことばかり考えてしまう。そんな僕の心を見透かしたように竜胆さんは、優しい声で呼び寄せてくれる。
リビングには着替えを終えたマキがいるから、僕は竜胆さんの傍にいたけど。料理を手伝うなんて発想が僕には欠けていた。
手渡された包丁を手に取って。さっそく見様見真似で玉ねぎを切ろうとすれば、切り込めずに包丁を滑らせてしまう。
「あれ、切れない」
「結莉くん。包丁はちゃんと持たないと危ないですよ」
後ろから竜胆さんに手を掴まれ、動きを支配される。手本を見せるように竜胆さんが僕の手を動かして切ってくれた。
どれだけ余計な手間だとしても、竜胆さんは嫌な顔一つしない。僕が一人で切れるようになってからも、何度も丁寧に教えてくれる。
「その、竜胆さん……」
「どうかしました?」
そんな中で、僕は気づいた。
「これって、三人分ですよね……」
「ええ。そうですよ」
竜胆さんが面倒を見てくれると言った以上、僕も人数に含まれている。
僕と竜胆さんとマキ。マキが竜胆さんの娘だと言うのなら、マキには父親がいるはず。
「あの。マ、マキの父親は……」
竜胆さんの旦那さん、とは聞かなかった。仕事の関係で家に帰って来れないのなら何も問題なんてないけど、もしも、それ以外の理由があったとしたら。
「死にましたよ」
ただ、冷たく。
その言葉は吐き出された。
「ごめんなさい……」
手遅れだとわかっていても。
僕は竜胆さんに謝ることしか出来ない。
「私は平気ですけど。同じ質問をマキにはしないでくださいね」
小さな声で竜胆さんは囁いた。
同じ内容をマキに訪ねる勇気なんて初めから僕にはないし。答えを知った以上、二度も聞くような質問ではなかった。
夕飯の準備を手伝った後。キッチン側にあるテーブルに料理が並べられ、リビングにいたマキも席に座った。
食器の位置的に僕は竜胆さんの隣でいいのだろうか。マキの近くだと色々聞かれそうだし、人見知りのフリをした方が良さそうだ。
「いただきます」
三人が席に座ったところで食事が始まった。
先程まで適当な番組を垂れ流していたテレビは沈黙している。どうやら、この家では食事中はテレビを消してしまうようだ。
「……っ」
食事中は退屈な思いをすると思っていた。けれども、すぐに脚に何かが当たっていることに気づいた。
可能性。もし、この家に竜胆さんとマキしかいないのだとしたら。普段の二人は、テーブルで向かい合って座っているのではないのだろうか。
なのに、マキの座っている席は僕の正面。
何故、そんなことをマキがするのか。
理解までは出来ないけれど。僕の脚に当たっているのは間違いなくマキの足だとわかっている。
「ねぇ、お母さん。結莉って、いつまでうちにいるのかしら?」
「そうね。しばらく、は」
家族の会話の中でもおかまいなしにマキの足は動いていた。柔らかな素足が、蛇が獲物を確かめるように僕の肌を這っていた。
「私が、面倒を見てもいいわよね?」
「残念だけど。アナタに世話は任せられない」
「任せられないって、ずっとお母さんが面倒を見るつもり?」
「ええ、そうよ。結莉くんは私が預かった、大切な『女の子』なの」
その言葉は改めて告げられた嘘。
マキの視線が竜胆さんから僕に移り。
「私、ずっと弟か妹が欲しかったのよ」
弟か妹が欲しい。何もおかしな言葉ではなかったはずなのに。マキの瞳から溢れ出る感情は、優しさの欠けらすら感じられない。
まるで、いつまで経っても芸を覚えられない飼い犬を見るような。哀れみにも似た視線が僕に向けられていた。
「驚いた。それは初耳ね」
「一度も言ってないから。当然」
竜胆さんもマキも、どちらも引かない。
でも、竜胆さんが僕のことをマキに任せるなんて言うわけがない。
何があっても僕はマキの妹にはなれない。
この世に生まれた時から僕の体は。
「結莉はどちらがいいの?」
会話の中で、初めてマキに声を掛けられた。
「僕は……」
マキに声を掛けられることに、抵抗があった僕は素直に笑顔を作れなかった。
今の状況で不安な顔なんて見せてしまうと、マキが勘違いするのは当然なのに。
「やっぱり、お母さんに結莉は任せたくないわ」
「……だったら、私の条件を聞きなさい」
まさか、竜胆さんはマキに僕のことを任せるのつもりなのだろうか。
「条件……?」
「結莉くんのお願いは何でも聞いてあげること。それが命令でも、頼み事でも、アナタに出来ることなら従いなさい」
「それって、結莉が私と一緒にいたくないって言ったら?」
「それはアナタが悪いせいでしょ」
竜胆さんの口にした言葉は大人としての醜さに満ちたものだ。
僕と口裏を合わせている以上、マキが言ったように誘いを断るのは簡単だった。
しかし、竜胆さんの目的はマキの男性恐怖症を治すこと。今の会話でも、さりげなく僕の立場を優位に保ちながら、マキに最も近づけるように仕向けている。
「そうね……まぁ、その条件で構わないわ」
マキの足がよくやく離れた。
これで、やっと落ち着ける。
そう思ったのに。
「結莉、私が守ってあげる」
「……守る?」
その一言が僕の記憶を呼び覚ます。
一切の光が差し込まない真っ暗な部屋。
床に散りばめられた無数の写真。
五感の全てが壊れていく感覚。
最低最悪な空間の中で、僕の見下ろす人間の存在がある。黒いモヤが彼女の顔を隠し、口元だけを僕に見せる。
彼女は「私が──を守ってあげる」と、告げた。
気持ちが悪い。僕が望まないことを、彼女は平気で口にする。何度も、何度も何度も、僕に同じ言葉を告げ、自分が正しいと思い込んでいる異常者。
過去を辿る程、僕の心は乱されていく。
感情の制御すら忘れるほどに。
「うっ……」
手の中から抜け落ちる箸。口の中の食べ物は味を失い。体の奥底から込み上げる感覚が、食欲を奪っていく。
僕の意思に逆らうように、胃の中身が吐き出された。
手で必死に押さえようとしても、指の間から液体は溢れる。喉の痛みと、鼻を刺激する臭い。
押し込もうとしても喉が拒絶する。それでも唇を噛み締め、口をとざせば喉に詰まって呼吸すら出来なくなってしまう。
ああ、情けない。
僕はどうして。
「結莉、手を離して」
こんな汚れた僕の手を掴んでくれる人がいる。マキと竜胆さんは嫌な顔一つせず、ただ真剣な表情で、僕のことを見ていた。
「結莉くん、これに吐いてください」
竜胆さんの渡されたゴミ箱。そこでよくやく僕は苦しみから解放される。胃の中が空っぽになるまで、ただ僕は何も出来ずに吐き出し続けていた。
幸いなのは服が汚れなかったことだろうか。落ち着いた僕はソファーに座り、マキに後ろから抱きしめられていた。
「ごめんね。結莉」
「え……?」
「私の『言葉』のせいでしょ?」
確かに、引き金はマキの言葉だったのかもしれない。でも、問題を抱えているのは僕の方で、マキに責任なんてなかった。
「マキさんは悪くないです……」
「敬語。使わなくていいわよ」
嫌われた可能性も考えて言葉を選んだつもりだったけど。マキとしては、敬語を使われる方が嫌なようだ。
「あれは、マキのせいじゃない……」
まだ喉が痛いせいで言葉が続けられない。
「結莉、優しいのね」
僕の返答は間違っていたのだろうか。
マキが僕の体を少しだけ強く抱きしめてくる。体を動かさずにいると甘い匂いが、マキから香ることに気づいた。
落ち着く匂いがする。なのに、マキの熱を感じるほど僕の中で不安が膨れ上がるようだ。人の熱は本当に苦手だった。
「マキ。お風呂に入りなさい」
そんな時、竜胆さんがマキを呼んだ。
「結莉、私とお風呂に入りましょ」
「あ、僕は……」
一緒なんて入れるわけがない。
「結莉くんは、もう入ったわよ」
「そう。残念ね」
マキが案外簡単に引き下がってくれたのは先程のことがあったからか。僕から離れたマキはリビングを出て行った。
「結莉くん、お腹が空いたら言ってくださいね。食べやすいものを用意しますから」
竜胆さんは僕にココアの入ったコップを渡してくれる。コップを受け取り、一口飲んでみると、竜胆さんが隣に座ってきた。
「竜胆さん、ごめんなさい」
「謝っても仕方がないですよ」
僕の気を紛らわせる為か、竜胆さんがテレビをつけた。名前も知らない人間が、僕の知らない場所で、何かをやっている番組。いったい何が面白いのだろうか。
「竜胆さんは、こういうのが好きなんですか?」
「いいえ。あの子が見ることはあっても、私がテレビを見ることはあまりないですよ」
「そうですか……」
テレビを見ても、つまらない。
似たような内容を何度も繰り返すだけ。
そんなどうでもいいことを考えていると、僕の手は、僅かな熱を感じていた。
竜胆さんの手。細くて色白で、僕の指先が少しだけ触れている。でも、竜胆さんは気にしていないのか、興味もなさそうにテレビを見ていた。
マキの居ない今なら、竜胆さんに質問を出来る気がした。マキに関する大事な質問。出来れば早く返答を聞きたかった。
「あの……」
「今、その話はしないでくださいね」
言葉を告げる前に止められた。
いくらマキがお風呂に入ってるからと言っても。どんな時に聞かれるかわからない。
おそらく、マキが家にいるうちは竜胆さんからも話を持ち出すことはないのかもしれない。
「……このまま何もしなくていいんですか」
「いいんですよ。結莉くんは、まだ子供なんですから。余計な気を使わなくても、責められるなんてことはありません」
竜胆さんの手が、僕の手を握った。
「大丈夫です。結莉くんには、ちゃんと伝えますから」
「はい……」
具体的な話を竜胆さんとは出来なかった。
これからの僕の役目、僕の立場。
そして、マキのことを。
救う。なんて、言葉は図々しいだろうか。
でも、マキの為なら頑張ってもいいと思えた。
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