第1話。竜胆の巣箱

「お風呂なんて、いつぶりだろ……」


 見慣れない浴室の天井。僕は肩まで湯船に浸かりながら、先程のことを思い出していた。


 あの家から抜け出してから、何度目かの雨のふる日。僕は竜胆りんどうさんに拾われた。


 僕が竜胆さんに連れて行かれたのは、住宅街にある戸建ての家。この家に着くなり僕は竜胆さんからお風呂に入るように言われ、大人しく従った。


「竜胆さん、か……」


 一応、竜胆さんは家族には連絡をしないと言ってくれた。もし、竜胆さんの言葉に嘘があれば、僕はとても困ってしまうけど、余計なことを口にしなければ家族のことを知られることもない。


結莉ゆうりくん。着替え置いておきますね」


 扉の向こうから聞こえてきた竜胆さんの声。僕が返事をする前に足音が遠ざかり、再び訪れる静寂が思考を働かせる。


 着替え。僕の着られる服。


 年齢の割に体格の小さな僕に合うような服を竜胆さんは持っている。つまりは、竜胆さんは結婚していて子供がいると考えるのが普通なのだろうか。


 でないと、小さな服を持っている理由がわからない。まさか、竜胆さん自身の服だとは思わないけど。可能性として考えておいた方がいい。


「そろそろ、上がろう」


 扉を少しだけ開けて外の様子を確認する。そこに竜胆さんの姿はなく、僕は浴室から出ることにした。


 カゴに置かれていたバスタオルを手に取り、タオルの下にある着替えを確認してみる。黒いシャツのようにも見えるけど、先に履きたいものがあった。


「あれ……」


 僕の着ていた服が無くなっていた。


 あらためて、辺りを確かめてみると僕の鼓膜に届けられる音が一つ。近くで洗濯機が動いており、僕の服を洗っていることがわかった。


 着替えの服を捲ってみるけど、下着は無い。それにズボンも見つからないし、竜胆さんはいったい何を考えて──。


「結莉くん」


「……っ!」


 突然、声をかけられて僕は驚いた。予期せぬ出来事に体が大きく反応してしまい、濡れていた床で足を滑らせてしまった。


「慌てると、危ないですよ」


 竜胆さんの腕が僕の体を抱きしめるように掴んでいた。おかげで僕は転ばなくて済んだけど、竜胆さんの服が濡れてしまった。


「ご、ごめんなさい」


「はい。大丈夫ですからね」


 僕の頭を竜胆さんは優しく撫でてくれる。


 人に頭を撫でられるのなんて、最近はなかったせいもあるけど。竜胆さんに撫でられると、余計に恥ずかしい。


「竜胆さん……僕の下着が……」


「あら。ごめんなさい。パンツは必要でしたね」


 よかった。理解してくれた。


「でも、その前に」


 竜胆さんはバスタオルを使って、まだ濡れている僕の髪を丁寧に拭いてくれる。他人に世話をされることに慣れていたせいか、竜胆さんの行動は自然と受け入れられた。


「はい、腕を上げてください」


 ある程度、拭き終われば。カゴに置かれていた着替えを竜胆さんに被せられる。


 生地がいいのか、肌に馴染む感覚があった。だけど、一番問題なのは、裾の長さが膝の辺りまであったことだった。


 これはシャツなんかじゃない。


 女の子が着るような。


 黒いワンピースだった。


「この服って……」


「ごめんなさい。結莉くんに合う服はうちにはありませんから」


「じゃあ、パンツは……」


「もちろん、ありませんよ」


 大きめのシャツだと思えば、我慢も出来る。けれども、下に履く物がないことは変わらない。


「で、でも、これだと見えませんか……?」


「大丈夫ですよ。私のうちに気にするような人間はいませんから」


 竜胆さんにとって。僕は完全に子供として見られていると言うことだろうか。


 いくら見栄を張っても、事実として僕は子供なのだ。理想的な大人には程遠い。


 鏡に写っている自分の姿。


 まだ未熟で痩せた僕の体は女の子みたいだ。


 もう少し髪を伸ばせば、他人が僕の性別を見分けることは困難で。こんな姿は嫌気がさしてしまう。


「せめてズボンを……」


「あ、そうですね」


 初めから用意していたのか、竜胆さんが僕に渡してきたのは普通の短パン。下着が無いから履き心地は悪いだろうけど、何も履かないよりはマシだった。


「ああ、そうだ。結莉くん」


 僕がワンピースの下に短パンを履き終わったところで。僕の両肩に竜胆さんが手を乗せ、優しい笑顔を向けてきた。


 母親が見せるような表情とは違う。


 不気味な竜胆さんの笑顔。


 まるで笑顔が素敵な女性の顔を、そっくりそのまま書き写したような、作り物のようで、本物らしい顔だった。


「一つだけお願いが、あります」


「お願い……?」


 竜胆さんは僕の耳元に顔を寄せると。


「私の娘。あの子がいる前では、結莉くんには女の子のフリをしてもらいたい。なんて、お願いです」


 竜胆さんには娘がいる。でも、僕が先に気になったのは、竜胆さんのお願いの方だった。


 女の子のフリをする。


 それが、悪い冗談なら良かったのに。


 竜胆さんが僕にわざわざ女の子の服を着せたのは、始めからお願いをするつもりだったから。


 僕にとっては最悪な提案。だけど、その条件を受け入れるだけで、人間らしい生活が出来る。野良犬のような日々を過ごした今なら、竜胆さんの提案が何よりも素晴らしく感じてしまう。


「僕に出来ることなら。やります」


「そう。結莉くんは、いい子ですね」


 望んでいる返事を聞いたからなのか、竜胆さんは僕のことを優しく抱きしめてくれた。


 竜胆さんは暖かくて、いい匂いがする。人の熱なんて煩わしいだけだと思っていたのに、不思議と竜胆さん熱は心地がよかった。




 今後のことを竜胆さんと話した。


 僕が望むかぎり、竜胆さんが保護してくれることになった。多少の頼み事をすることはあっても、僕に多くは求めないそうだ。


 竜胆さんに感謝はしている。だけど、僕にとっての問題が解消されたわけではない。今も竜胆さんに与えられた服を着ているせいで、違和感を覚えていた。


「やっぱり、落ち着かない……」


 家のリビング。ソファーに座りながら僕はワンピースの裾を触っていた。


 少しだけ、竜胆さんに化粧をされたりして格好を整えられたけど。いざ、女の子のフリをするとなれば僕にとっては難題だった。


 何故なら僕は男なのだから。


 本物の女の子相手に、どこまで通用するのか。


 そもそも僕が女の子に見えているのか。


 というか、僕、何してるんだろ。


 なんて、色々と考えているうちに不安な気持ちばかりが膨れ上がってしまう。


「あの子。帰ってきますよ」


 無情にも告げられた竜胆さん言葉。


 玄関の扉が開く音が聞こえた。少し後にリビングの扉は開かれ、そこから姿を現した人物。


「……っ」


 彼女の姿に僕は言葉を失う。


 竜胆さんの娘さんで間違いはない。


 見た目は若い。


 だけど。


 僕を黙らせたのは、その容姿。


 竜胆さんと違って、全身から漂う気迫。常に他人を警戒するような鋭い目つき。綺麗な長い髪と合わさる体型。思い浮かんだ印象は。


 美しくて、怖い人だった。


 彼女は僕のところに歩みを進める。


 そのまま彼女はソファーに片脚を掛けると、僕に向かって来る。肩を掴まれた僕は押し倒され、行動の主導権を彼女に握られてしまった。


「あ、あの……」


「……」


 彼女の顔が僕の目の前に迫る。


「マキ。やめなさい」


 竜胆さんの言葉で『マキ』と呼ばれる彼女は視線を逸らした。


「お母さん、この子。どうしたの?」


「知り合いの子を預かったのよ」


「知り合い……そう。知り合いか」


 もう一度、彼女が僕を見ると。


「初めまして。私は周りの人からマキと呼ばれているわ。だから、アナタも私をマキ呼んでくれて構わないわ」


 マキ。それが本名なのだろうか。


 琴吹さん、なんて呼んだりすれば、竜胆さんも反応してしまう。だから、言われた通り、彼女のことはマキと呼ぼう。


「ぼ、僕は……結莉です……」


 女の子で僕って、変だろうか。


「結莉。可愛い名前ね」


 マキは僕の存在を、どちらとして見ているのだろうか。少なくとも、反応を見る限りはバレている様子はなさそうだった。


「それじゃ、また後で。結莉」


 軽い挨拶を済ませれば、マキは僕から離れて廊下の方に出て行った。


 竜胆さんによれば、二階にある自分の部屋に行ったそうだけど。


「竜胆さん」


「はい」


 マキと顔を合わせてみて、僕が性別を偽る理由となる問題を、何も感じなかった。


「どうして、僕が演じる必要があるんですか?」


 だから、改めて竜胆さんに質問をした。


 竜胆さんは僕の傍まで近づいてくると、耳元に顔を寄せる。おそらく、マキに聞かれたくない話なのだろうけど、竜胆さんの言葉は確かに届けられる。


「あの子が男性恐怖症だからです」


 男性恐怖症。そのままの意味として捉えていいはずだ。マキは異性の存在を恐れ、拒絶する。身体の病気とは違い、心の病は見た目では判断しにくいことがある。


「だったら、僕は居ない方が……」


 先程の様子からして、マキは僕が男だとは気づいていない。


 気づいてないからこそ、今のうちに止めた方がいい。もしも、マキが後から僕が男だと知れば、嫌な思いをするのに。


「結莉くんには、マキの男性恐怖症を治す手伝いをしてもらうつもりです」


 僕の考えが甘いと思い知らされるのは、竜胆さんの言葉を聞いてからだった。


 自分の子供の病気を治したくない親がいるわけがない。竜胆さんはマキの治療の為に、僕を利用することを考えている。


「もちろん、結莉くんが嫌と言うのなら。私としても、強制するつもりはないですよ」


 強制ではないと言ってくれるけど。


「……もし、僕が断ったら?」


 僕の言葉で竜胆さんは微笑んだ。


「結莉くんは、断りませんよ」


 竜胆さんの指先が僕の頬を撫でる。


「手伝ってくれるのなら。私は結莉くんの為に、なんでもしてあげますよ」


 その時、竜胆さんが冗談を言っているようには聞こえなかった。


 竜胆さんは本気でマキの病気を治したいと思っているからこそ、自分が差し出せる対価を支払うつもりなのか。


 でも、まだ僕が子供だからと考えて竜胆さんは軽い気持ちで言っている可能性もある。


「……本当になんでもいいんですか?」


「私に出来ることなら」


 正直なところ、僕には欲が無かった。いや、まったく無いというのは嘘だけど。誰かに頼んでまで手に入れたいと思える程の願いが無かった。


 僕が最も必要としていた居場所。それは既に竜胆さんには与えられ、願う必要がない。他に竜胆さんに願うことは、何も思い浮かばなかった。


「それじゃ……」


 僕が考えついたのは。


「マキの男性恐怖症が治ったが終わった後も、ここに居させてもらえますか……」


 どうやったら、マキが病気が治るかもわからない。もし、病気が治ってしまった時、僕の存在が必要無くなるのはわかっている。


 だから、もう一度。


 確かな言葉が欲しかった。


「もちろん、いいですよ」


 竜胆さんは、優しく微笑んでいた。

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