第49話 アイスランド有識者会議メンバー・シーグルズル
シーグルズルはあれからすぐに硫化水素の濃度を変えて青カビの生育状況を観察した。
当然ニカイドウの方もやっているだろう。だが、こちらは天然の溶岩やホットスプリングスで採取した硫黄の結晶やら溶岩の塊などがある。生で使えるものは何でも使って試してみたい。
そうやってニカイドウと自分で観察した結果を連名で発表し、世界に向けて呼びかけた。――これは硫黄細菌の特性を持った新種の青カビである、と。
ニカイドウは各種メディアの露出が多い。彼が「青カビについて新たな発見があった」といえば日本のメディアはこぞって取材する。いっそ記者会見を開いた方が早いのだ。
しかしニカイドウはそれすら待っていなかった。日本の青カビ対策の総指揮を任されているカケイ大臣がニュースに出ている時にリカを割り込ませた。
彼女はこれが硫黄細菌の特性を持った青カビであることを説明するとともに、アメリカ東海岸に蔓延しなかったのは、拡がりを抑えたのではなく大気中の硫黄濃度が低いことを理由に挙げた。
カビ自体は既に地球規模で拡がっており、それが爆発的に増えるかどうかは硫黄濃度にかかっている。造山帯の上に位置する国、ホットスポット近辺、活火山や温泉地などでは確実に増える。それ以外の国も、増殖していないだけで実際にはカビはそこに存在する。
そして、カビの発生の発端となった場所やその理由もほぼ特定できている。まだ確実とは言えないため発表の段階ではない。
さらに、二階堂研究所ではその青カビの繁殖を抑えるための特殊なウィルスを開発した。
これらのことを一度に発表した為、世界は騒然となった。それはそうだろう、このカビを抑え込む方法がいつになったら開発されるのか、一寸先も見えないままひたすら我慢が強いられてきたのだ。
そこへこの発表だ。しかもニカイドウではなくてリカを投入するとは本気の勝負に出たらしい。当のニカイドウはSNSでその様子を拡散していたようで、こちらにも「アイスランド語で通訳お願いします」とメールが来た。
その後すぐに二階堂研究所にホワイトハウスから「アラスカで試験的に使ってみたい」と連絡が入り、アラスカが猛反発。ここアイスランドでもゲイシールが既に壊滅状態であることと硫黄発生地であることからここでの試験を政府に打診してみたが、なかなかいい返事がもらえないまま時が過ぎていく。
とはいえ、青カビの発生が硫黄の濃度に左右されるということがわかっただけでも大収穫だ。一時期完全に途絶えた物流が再開したのもそのお陰だ。カビが付着していようがいまいが、硫黄の出ないところでは普通の青カビと全く変わらないことがわかっているのだから。
一刻も早く元の状態に戻したい。だがアイスランド政府は、国内での試験に難色を示している。
世界で二番目にならやってもいいが、一番最初にやるのはやはり怖い。どこの国もどこかが最初にやるのを待っている状態なのだ。
そんな時、シーグルズルの下に朗報が届いた。二階堂研究所と日本政府が組んで、とある島を使って試験をしたらしい。精度保持のため、試験に使用される島と試験日程は発表されていないが、すでにウィルス散布は済んでいるようだ。あとはその結果待ちといったところだろう。
そのニュースが世界を駆け巡ったときには既に各地の造山帯上にある世界遺産は深刻な被害を受けており、完全な修復には何十年もかかるという試算が出ていた。
そんな中でもニカイドウは現在の状況を細かに発信して、各地で混乱が起きないように気を配っている。
最新の情報では、WHOにウィルスの世界への配布申請を出し、国連規格の運送用包材を準備している段階だという。ウィルス自体は二階堂研究所が総出で培養しているらしい。
世界中が今か今かと待つ中、ついにアイスランド政府が重い腰を上げた。ゲイシールでの試験の許可を出したのだ。
それを受けて、待ってましたとばかりにニカイドウは中間報告を発表した。
最初の試験がオガサワラの近く、イオートーという硫黄濃度の高い島で行われたこと。そして二回目の試験は、同じく硫黄濃度の高さと人の居住地から離れているという条件から、アイスランドのゲイシール近郊で行われることになったという内容である。もちろんアイスランドに共同研究者のシーグルズルがいるからなのだが。
イオートーでの試験は成功に終わり、試験開始以来青カビの増殖は確認できていないらしい。あとはこのまま現在のカビを一掃すれば元通りとまでは行かないにしろ、かなり回復できるだろう。
そして。つい先ほど大学の研究所から、シーグルズル宛に荷物が届いたと連絡が入った。差出人は二階堂研究所生物科学ラボ。中身は見るまでもなくウィルスだ。
これから青カビをウィルスに感染させ、ゲイシールでばら撒く。農薬散布用ドローンのスペシャリストも手配してある。
来るべき時が来た。自分自身が先延ばしにしてきたことに決着をつける時が来たのだ。
急に全身に震えが来た。武者震いなんていうかっこいいものではない。恐怖だ。
科学者はいつだってリスクと隣り合わせだ。それは物理的なものであったり、論理的なものであったり、人為的なものであったりする。
もしも……万が一、これを撒くことによってヒトに何らかの影響が出たら。あっという間にSNSで吊るし上げられ、ニカイドウとリカ共にバイオテロリストのレッテルを貼られてしまうのだ。
それをアイスランド政府に紹介し、是非にと推した自分にも責任がある。
自らを奮い立たせるように、シーグルズルは妻のお気に入りのボタニカル柄マスクをつけて玄関へ向かった。リカのウィルスが自分を待っている。
玄関のドアを開けると、なんてことだ、ちょうど帰って来た妻が目の前に立っていた。
「ただいま」
「おかえり」
「これから大学?」
「例のものが届いたんだ」
平静を装って言ったつもりだった。だが、声が上ずってしまった。シーグルズルは自分の正直すぎる体が嫌になることがある。
彼女がそれを見逃すわけもなく……かと言ってわざわざ指摘するわけもなく。彼に笑顔を向けるとその肩をポンと叩いた。
「行ってらっしゃい。あなたが世界を救うのよ」
彼女には敵わない。何でもお見通しなんだ。
「行って来る」
僕たちはマスク越しに何度目かのキスをした。
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