第32話 阿曽沼一義・3

「ずいぶん遅かったですねぇ」


 阿曽沼が二階堂研究所に電話を入れたときの第一声がこれだった。まったりとした危機感の欠片もない口調。――誰なんだ、この男は?


「あ、失礼。私が二階堂研究所の所長、二階堂大地です。初めまして。阿曽沼さんならもっと早い段階で連絡をくださるかと思ってましたが、筧大臣に手こずられてましたか」


 まだ何も言っていない。千葉県副知事・阿曽沼一義を名乗っただけだ。

 二階堂は切れ者だと聞いている。こののんびりとした口調は『切れ者』という単語からは程遠いが、案外本当に切れ者なのかもしれない。


「ええ、まあ」

「こちらとして形式上は募集の形を取りましたけど、最初から千葉県を名指ししているつもりでしたんで、阿曽沼さんまだかなぁって首を長くして待ってたんですよねぇ。阿曽沼さんなら政府に先立って『千葉モデル』を作るはずですから」


 千葉県側の事情をすべて読まれている。むしろ阿曽沼は二階堂の張った罠にまんまとかかってしまったというべきか。

 だとしても、千葉県にメリットはあれどデメリットは何もない。素直に乗っておいた方が得策だろう。

 それにしても彼は「阿曽沼さん」と言った。なぜ知事の丹下ではないのか。


「なぜ私がご連絡するとわかったのですか?」

「ああ、簡単なことですよ。千葉県での丹下さんの役割は県民の心を掌握すること、阿曽沼さんの役割は丹下さんの頭脳。丹下さんにこの仕事はさせられない、かといって県庁職員にもさせられない、なぜならこのプロジェクトは丹下さんと阿曽沼さんが水面下で秘密裏に動かそうとしてるから。必然的にこちらに接触して来るのはあなたしかいませんよねぇ」


 ――そこまでわかっているのなら話は早い。とっとと腹を割って話した方が良さそうだ。阿曽沼は覚悟を決めた。


「なるほど、用件は承知済みということですね。まずは概要をお聞かせいただけますか?」


 受話器の向こうで二階堂がフフフと笑った。


「百聞は一見に如かずです。SNSの丹下さんのアカウントに送ったアドレスに今すぐアクセスできます? 個別チャットの方に送ってますから」

「少々お待ちください。丹下の個別チャット……ああ、はい、これですね」

「それ、インストールしてください。ただし、丹下さんか阿曽沼さんの個人端末で。県庁の端末にインストールしてしまうと、バレる恐れがありますからねぇ」


 阿曽沼は慌てて自分のタブレットを立ち上げる。こっちにインストールすればバレることはない。

 悪いことをしているわけでもないのに、つい周りを窺ってしまう。丹下と二人だけの秘密、いや、二階堂を入れて三人だけの秘密の仕事を進めているせいだろうか。それともEnterキー一つであっさり作業が完了してしまったせいだろうか。

 もう引き返せないと思うと、阿曽沼自身の鼓動が骨伝導で直接耳に届いてくる。


「インストール完了しました」

「メニュー見てもらえますかねぇ。見ればわかりますんで」


 なんだこれは。二階堂研究所で開発したものか?

 例のカビの発生から今日までの各国の発生状況の推移、推定感染ルート、交通状況、経済への影響、健康被害、環境被害が一目瞭然だ。どうやってこれだけのデータを集めたのか。


「大体見ていただければわかると思うんですけどねぇ。このカビがアイスランドで最初に発見された時点でパンデミックが予想されたんで、すぐにこのシステムを作らせたんですよ。仕様は私が考えたんで、わからないことは私に聞いていただければお答えできます。『データ』はあとで時間のある時に眺めておいていただくとして、今は『レポート』のところ見てください」


 アイスランドの報告を聞いてからこれを作ったというのか。随分仕事が早い。


「市民からの通報があるとまずはここに通知されます。通知が入った時点で一番右のステータスが『通報』になります。この時点で即、駆除部隊を出動させます。これは知事の方で。二階堂研究所からもスタッフを向かわせます。うちのスタッフが胞子のサンプルを採集した時点でここを『採取済み』に変更します。これを確認してから県の駆除部隊が活動に入ります。駆除完了通知を入れることで『駆除完了』になり、そのポイントは終了となります。当日分の集計に乗せた時点で『集計済み』になり、『レポート』から抹消されてデータが蓄積されます。集計は一時間ごとにこちらで一斉に行うようプログラムしてますので、データに反映されるのは毎正時です」

「こちらでは何をすればいいのですか?」

「通報があったらすぐに駆除部隊を出動させること、駆除部隊は『採取済み』になったのを確認してから駆除を行い、終わったら完了通知を入れること。これだけです。通報一件につき必ず一つの識別番号がつきますんで、それを利用してください」


 阿曽沼は何度も頭の中で反芻した。自分が理解できていないと丹下に説明ができない。


「市民はどうやって通報するんでしょうか」

「えーとですね、今チャットの方に送りました。このアドレスを県のホームページと丹下さんのSNSアカウントで発信してください。通報フォームにリンクします。通報フォームはあとでそちらで確認してください。まだ本番運用してないので、テストで通報してもいいですよ。データはいつでも見ることができますけど、通報システムの本番稼働は丹下さんのゴーサインが出てからにしますんで」

「こちらでやらなければならないことは?」

「さっき言ったことだけですよ。こちらは丹下さんの人脈と顔の広さで分布管理とサンプル収集が可能になる。そちらはこのシステムを使って迅速に駆除ができ、市民に数値化したデータを見せることで安心感を与え、協力体制を強化することができる。一石二鳥でしょう? フフフ」


 これはとんでもない切れ者だ――阿曽沼は改めてこののんびりした口調の男の能力に驚愕した。

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