第16話 クロエ・2

「お母さん、新聞持ってっていい?」


 学校から帰って来るなり、ウィリアムがキッチンに向かって大声を出しながら駆け寄って来た。


「玄関の前にある分なら持ってっていいわよ」

「新聞紙じゃなくて新聞。今日のがいいの」

「何に使うの?」

「学校の課題で、社会で問題になってることを探してまとめるんだよ。僕のグループは四人ともみんな仮設ここの子たちだから、今からエラのところに集まろうって言ってるんだ。トーマスもソフィもエラもみんな家で新聞取ってないから」


 仮設住宅で新聞を取っている家は少ない。特にここガバーダの仮設住宅は、もともとダンスバラ東にあったナチュラリステ原子力発電所の職員村住民だけが住んでいる。そして彼らはほとんどがその職を離れてしまったが、なかなか定職に就けず、慣れない仕事で給料も安く、新聞すら取れないのが現状だ。

 その点忙しいとはいえ、仕事に恵まれているイーサンはラッキーな方だろう。彼がいろいろな技能を持っていたからこそではあるが。


「仮設の子ばかりのグループなのに、原子力発電所のことは書かないの?」

「みんなそれで来ると思ってるからわざと外すんだよ。今、アイスランドのカビが問題になってるでしょ。僕たちのグループはあれをテーマにしようって決めたんだ」

「うん、まあそういうことなら持って行ってもいいわよ」

「ありがとう。暗くならないうちに帰って来るよ。って言ってもどうせエラのところだから、窓開けて『帰って来い』って言えば聞こえるけど」


 簡単に言えば、エラは隣に住んでいる。ダンスバラの職員村の中で、同じ年に生まれた四人は特に仲良くしているらしい。一緒に転校して助け合ってきたのだから、そうもなるだろう。仮設の子たちは苦労が多い分だけ結びつきも強い。


 家事が一段落したら読もうと思っていた新聞を息子に持って行かれてしまったので、仕方なくテレビをつける。ニュースくらいはやっているだろう。

 例のアイスランドのカビと同じものかどうかわからないが、あの後アラスカでもカビが大繁殖し始めたらしい。


 ここオーストラリアでも例年より多くカビが繁殖しているが、大繁殖というほどではない。それなのになぜ、寒いイメージしかないアイスランドやアラスカで増殖しているのかクロエにはさっぱりわからない。こんな時イーサンなら何か納得のいく説明をしてくれそうなものだが。


 この前久しぶりにイーサンが帰って来てくれた日から、まだ一週間しか経っていない。この一週間の間にアイスランド西部の観光地に広がっていたカビは既にアイスランド全土に広まっているらしい。それどころか、一体どうやって渡ったのか、アラスカにも蔓延し始めているという。訳が分からない。


 近頃この辺りで例年より多く見られるカビがそれらと同じタイプのものだったら、これだけ暖かい地方だ、大変なことになっていただろう。ここでさほど大繁殖していないところを見ると、別の種類のカビなのかもしれない。


 テレビではちょうど特集を組んでいた。映っていたのは異様な光景だった。

 木造家屋の壁、ドア、窓枠、玄関前のコンクリートブロック、花壇のレンガ……いたるところが淡い青緑に塗りつぶされている。

 現地でリポートしているアナウンサーもマスクに白手袋、一体何事かという装備である。


『ご覧ください。こちらの木にもカビが確認できます。現在カビが生えていないのはアスファルトとガラスと……プラスチックには生えていませんでしょうか。こちらのお宅の住人の方が出ていらっしゃいました。お話伺ってみます。……すみません!』


 男性アナウンサーが住民らしき中年女性に声をかける。アイスランド語だろうか、耳慣れない言葉だが、下に出ているテロップで何を話しているのかがわかる。


『こちら、いつからこのような状態なんでしょうか?』

『一昨日からです。単なるカビだからね、ほらこれ、アルコールスプレーかけてちょっとゴシゴシやるとすぐに取れるんだけど、またすぐに生えてくるのよ。いたちごっこだわ』

『いつもその装備なんですか?』

『まだここ数日だけね。だけど、ほんのちょっと外に出るにも、必ずマスクと手袋してるの。青カビの胞子なんて吸い込みたくないじゃない? でもこれだけ酷いと買い物に行くのも大変。最近じゃマスクも品薄になって来てるから、売り切れる前にまとめ買いしたいんだけど。なかなか出かけられなくなるから、トイレットペーパーも買いだめしなくちゃ』


 画面の右肩に小さな地図と共に「アークレイリ」と書いてある。聞いたこともない地名だが、アナウンサーが言うにはレイキャビクに次ぐ二番目に大きな街で――と言っても人口は二万弱らしいが――アイスランドの北側の海に面した静かな町のようだ。

 北側? レイキャビクはアイスランドの南西部だったはずだ。このアークレイリとやらでこれだけの騒ぎになっているのなら、震源地ともいえるレイキャビクはとんでもないことになっているのではないだろうか。


 彼女の思考とテレビの音声は、唐突に割り込んだ電話の音に分断された。発信者はアメリア――エラの母親だった。

 ウィリアムが何かやらかしたのかしら、と思いながら電話を取ると、アメリアの陽気な声が響いてきた。


「クロエ、今からうちに来ない? 子供たちは四人で勝手に学校の課題やってるみたいだから、私たちも一緒にお茶しましょうよ。ショートブレッド焼いたの」


 子供たちがどんな風に課題をこなしているのか見てみたい気もしたクロエは、二つ返事でアメリアのところへ行く旨の返事をした。

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