第2話

 涙腺が決壊したと言ってもいい。

 意識が戻ってから一度も泣いていなかった私は、涙を流し続ける。それは、洪水のようで止まることがない。心のダムに貯めっぱなしになっていた感情が、一気にあふれ出しているようだった。ティッシュがいくらあっても足りない。


「どこにいるの?」


 何十枚目かのティッシュで鼻をかんでから、幽霊であろう光莉に問いかける。


『いるよ、ここに』


 相変わらず、声の出所がわからない。

 私は涙を拭いてドアを見る。

 けれど、そこには誰もいない。机を見ても、ベッドを見ても人影どころか人魂すら見えなかった。


「どこにもいないじゃん。光莉の幽霊、見えない」


 ずびずびと鼻をすすりながら文句を言う。


『あー。私、幽霊とはちょっと違うかも。だから、外にはいない』

「ちょっと違うってなに? 幽霊じゃないの?」

『イエスかノーかで答えるならノーだと思う。んー、説明が面倒だな。簡単に言うと、私、遥の中にいる』

「へ? なか?」


 思わず胸の辺りを見る。

 当然、光莉はいない。


『そこじゃない。遥の頭の中。意識の中って言ってもいいかも』

「――嘘でしょ」


 光莉の言葉を聞いても、私の頭の中に彼女がいるとは思えない。気配も感じられない。

 幽霊だって言われた方がまだ信じられた。

 頭の中に光莉がいるなんて、私の理解の範疇を超えている。


『ほんと。意識を自分の内側に向けてみて』

「そんなので光莉が見えるの?」

『声が聞こえるんだから、見えるはずだと思う』


 十六年間生きてきた中で、今ほど半信半疑という言葉がしっくりくるシチュエーションはない。

 私は、半分だけ光莉を信じて意識を頭に集中させる。


 光莉が見たい。

 光莉に会いたい。


 強く念じながら、自分の内側を覗き込むように目を閉じる。


 すると、頭の隅っこ。

 意識の片隅。


 なんと表現して良いのかわからないけれど、確かに光莉が私の中にいた。ぼんやりとしているけれど、光莉だとわかる。もっと彼女の姿をはっきりと見たくて意識を寄せていくと、制服を着た光莉が現れた。


『久しぶり』


 机の上に置いてある写真と同じように、光莉がにこりと笑う。


 肩よりも長くてさらさらとした髪。

 校則通りのスカート丈に、ちょっとだけ大きなブレザー。


 彼女は夏だというのに、写真と同じように冬服を着ている。暑そうだけれど、曲がることなくきっちりとリボンが結ばれていてそんなところは几帳面な彼女らしかった。


「光莉」


 もう会えないと思っていた彼女の名前を呼ぶ。


「会えて良かった」


 その言葉を口にした瞬間、止まりかけていた涙がナイアガラの滝も裸足で逃げ出す勢いでだだだだーっと流れ出る。慌ててティッシュで目を押さえると、随分と軽い声が聞こえてきた。


『泣くほどのことじゃないよ。それに、遥。でっかい独り言になっちゃうから、外では私と話すときに声を出さない方がいいよ』

「独り言?」

『うん。私と遥って、脳内で会話してる状態だから。私の声は外に聞こえないから、今の遥は絶賛独り言中って感じかな』

「なっ。それ、早く言ってよっ。私、馬鹿みたいじゃん!」


 予想していなかった指摘に大声を上げると、光莉がけらけらと笑いながら言った。


『どこから見ても馬鹿みたいだったと思う。あと、また声出てる』


 私は、反射的に口を押さえる。

 むぎゅっと唇を押し潰したまま、誰かに“独り言”を聞かれていなかったかと振り向く。当然、誰もいるわけがなく、私は椅子に崩れ落ちるように座った。


『話しかけようと思ってくれたら、遥の声は口に出さなくても聞こえるよ。あと、そろそろ泣くのおしまい』


 光莉の声に、残り少なくなってきたティッシュを引っ張りだして涙を拭く。擦ると目が腫れると光莉に言われてもゴシゴシと流れ出る液体を吹き続けていたら、彼女の手が私の頬に触れた。……と思う。


 思うなんて曖昧な言い方なのは、触れられた実感がなかったからだ。

 目に、いや頭の中に光莉が私に触れている映像が映っていた。でも、その感覚がない。光莉を見ると、彼女は困ったような顔をしていた。


 光莉には実体がいない。

 まるで想像上の人物みたいに、私の頭の中にいるだけだ。だから、感覚がないのも当たり前のことなのかもしれなかった。


(で、なんで光莉が私の中にいるの?)


 私は、重くなりかけた空気を吹き飛ばすように明るい声、ではなく意識で問いかける。すると、光莉がにやりと笑った。


『愛の力ってやつ?』

(友情パワーみたいな?)

『そういうのじゃなくて。最後に愛する人に会いたいという愛の力』

(まるで恋人同士みたいじゃん。それ)


 学校だったら、光莉の肩をバンバン叩いて笑ってる。

 それくらい荒唐無稽な話だと思う。

 でも、彼女の目は真剣そのものだった。

 

『私たち、付き合ってたんだけど……。もしかして、忘れちゃった?』

(付き合う? 私と光莉が? 私、女だよ?)


 問いかけてくる声は真摯なもので、冗談でしょと笑い飛ばす雰囲気ではない。私には想像できないけれど、光莉は大真面目に二人が付き合っていたと思っているようだった。


『知ってる。私も女だけど付き合ってた』

(冗談でしょ?)


 私の頭の中にある記憶は、ピースがいくつもなくなったジグソーパズルのようで、失われた部分に何があるのかはっきりとわからない。今も光莉との思い出を辿っているけれど、欠けて繋ぐことができない部分がある。もしかしたら、そこに“恋人”というピースがはまるのかもしれないが信じられない。


『本当に忘れてるの?』


 問い返されて、私は細く息を吐いた。

 光莉が嘘を言っているようには思えない。

 そして、彼女は私がなくしてしまった記憶を持っている可能性がある。


(……付き合い始めたのっていつ?)


 事故で飛ばされてしまったピースの行方を知りたいと思う。

 光莉と付き合っていたなんて信じられないけれど、なくした過去を埋めていくなら疑っているだけでは前に進まない。話を聞く必要がある。


『大体、二ヶ月前くらい。遥から告白してきたんだけど』

(ごめん。私、事故のせいでその辺りの記憶と子どもの頃の記憶がない)

『記憶がなくなったって話、聞こえてきてたけど、付き合ってたことは覚えててくれるかなって期待してた』


 あからさまに落胆した声が聞こえて、私は「ごめん」ともう一度謝った。


 付き合っていたなら、恋人だったなら、自分のことだけはすべて覚えていてくれると思うだろう。私が光莉の立場ならきっと同じことを考えるし、覚えていてくれなかったらショックだ。


 とは言え、なくした記憶が戻ってくる気配はない。

 私にできることと言えば、思い出すための努力をすることくらいだ。そして、努力をするつもりもある。

 ただ、その前に聞きたいことがあった。


(光莉って、私の考えていることというか意識というか。そういうのわかるの?)


 頭の中にいるなら、私の思考すべてが筒抜けになっていてもおかしくはない。


『わかんないかな。遥の意識とシンクロしているわけじゃないんだよね。別人格として中にいる感じ。目や耳から入ってくるものは共有できるし、今みたいに私のことを認識して話しかけてくれたら意思疎通ができるけど』

(そっか)


 良かった、と胸をなで下ろす。

 やましいことがあるわけではないけれど、考えていることが全部お見通しという状態は精神衛生上よろしくない。


(そう言えば、光莉っていつから私の中にいるの?)

『たぶん、死んだ瞬間から。遥って、二週間くらい意識がなかったでしょ? でも、その間も私の意識はあったんだよね。だから、最初は死んだことにも気がつかなくてさ。体があるみたいなのに動かないし、変だなーと思ってたんだよね。そしたら、遥のお母さんが病室に来て事故の話とかしてたから、私、死んだんだなーって』


 ずきん、と胸が痛む。

 光莉はここにいるのに、もういない。

 その事実が私の胸を刺す。


 目が潤んで、視界がぼやける。

 けれど、私が泣き出す前に光莉が言った。


『ま、事故のことは気にしなくていいよ。死んじゃったものは仕方がないし、今は遥の中にいられるしね』

(ずっと、私の中にいられるの?)

『一般的には四十九日間じゃない。その間は、死んでも成仏せずに彷徨ってるって言うし。だから、それが本当ならあと一ヶ月くらいかな』

(適当すぎない?)

『死んだのなんか初めてだからよくわからないし、しょーがない』


 ふわふわと浮かぶ風船よりも軽く言って、光莉がバレリーナみたいにくるりと一回転する。そして、晴れやかな顔で私を見た。


『とりあえず、すぐに成仏するってわけでもなさそうだからさ、思い出巡りでもしない?』

(思い出巡り?)

『そ。成仏する前に、私が恋人だったって認識くらいはして欲しいし。過去のデートコースを巡って、思い出してもらおうかなって』


 そう言って、光莉が私の手を握る。

 触れ合っているはずの肌からは、熱を感じない。

 でも、日だまりにいるみたいに胸の奥が温かくなった。

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