私と彼女の脳内コミュニケーション

羽田宇佐

第1話

 目の前にある家は、どこからどう見ても私の家だ。


 三角屋根に焦げ茶色のドア。

 レンガを思わせる模様が入った壁。


 久しぶりに見たけれど、佐竹遥が高校二年生になるまで暮らしてきた家で間違いない。


 母親が運転する車に乗って、いくつもの角を曲がり、三週間ぶりに帰ってきた。

 だからだろうか。

 目に映る建物に違和感があった。


 まるで私の家ではないようなそんな感覚。


 馴染みがあって佐竹遥の家に間違いないとわかるのに、記憶にぴたりとはまらないような不快感がある。

 私は、違和感を拭うように額に流れる汗をハンカチで拭う。


 中途半端に長くなった髪が鬱陶しい。

 今が夏だと主張するように鳴く蝉の声が耳に付く。


 遊びに行きたくなるようなシャツワンピースは、サイズが合っているにも関わらず、自分のものじゃないみたいに体に馴染まない。この場所に立っていること自体が間違っているようで、私は小さく息を吐いた。


 でも、これも事故の後遺症の一つなのかもしれない。


 何せ私の記憶は、三週間前に遭った事故が原因で一部が行方不明になっている。事故に遭う前二ヶ月分くらいと、子どもの頃の記憶がすっぱりと抜け落ちていて、思い出せないことだらけなのだ。医者から頭を強く打ったせいだと言われたけれど、事故に遭った日のことすら覚えていないのだからどんな風に頭を打ったかもわからない。


 私にわかることは、青信号の横断歩道を歩いていたら車にひかれたことと、数人が怪我をして一人が亡くなったこと。そして、その亡くなった一人が私と一緒にいた友達だったこと。それだけだ。……と言っても、全部母親から聞いたことだけれど。


 失われた記憶の行方については医者もわからないらしく、記憶が戻る保障はないと言われている。


「遥、大丈夫? ここが自分の家だってわかる?」


 優しい声が聞こえて、私は振り返る。

 そこには、玄関の前で立ち止まったまま動かない娘を心配する母親がいた。


「うん。わかる」


 違和感があるけれど、自分の家だと認識できているから嘘ではない。


「そう。じゃあ、外は暑いし中に入ろうか」


 そう言って、母親が鍵を開けて玄関に入る。後に続いて家の中に入ると、右耳が欠けた犬の置物が目に入った。


「これ、覚えてる? 昔、遥が欲しいって駄々をこねて」

「そうだっけ? 私が耳のところを壊しちゃったことは覚えてるけど」

「中学に入るとき、入学祝いに何が欲しいって聞いたら、これが欲しいって言ったじゃない。思い出さない?」

「覚えてない」

「そう」


 母親が声色を変えずに言って、靴を脱ぐ。そして、私を見た。


「自分の部屋はわかる? 二階の左よ」

「さすがに忘れないよ。でも、ありがとう。ママ」

「……」


 怪訝そうな顔が視界に入り、意識が飛びそうになる。


 違う、違う、違う。

 また間違えた。


 脳の奥の方から声が聞こえる。

 この人はママじゃない。


 ――お母さんだ。


 確か、そう呼んでいた。


「ごめん、お母さん。記憶がはっきりしなくて」


 曖昧に笑って、視線を落とす。

 この玄関、見たことがある。

 二週間ほど戻らなかった意識が戻ってから一週間。体に異常がないことがわかって、やっと家に戻ってきた。


 だから、まだ調子が悪い。

 記憶の繋がり方がおかしくなっている。

 そのうち、行方不明になった記憶が見つかって、私はちゃんと私になる。


「遥は意識が戻ったばかりだし、小さな事は気にしなくていいからね。これから落ち着くだろうから」


 柔らかな声でお母さんが言う。

 でも、聞こえてくる声がちょっとだけ震えていた。私はどうしていいかわからなくなって、小さく「うん」とだけ答えて二階へ上がる。


 階段を上りきった左。

 ドアを開ければ、見慣れた空間が広がっている。


 古くなった木製の机に、丸い取っ手が可愛いチェスト。

 窓際には、買い換えて欲しいと思っているパイプベッドが置いてある。

 どこかしっくりと来ないけれど紛れもなく私の部屋で、どれも見たことがあるものばかりだ。


 机の上に視線をやれば、写真立てが一つ。

 月森光莉と私が仲良く並んで写っていた。


 私はエアコンのスイッチを入れ、ベッドに腰を下ろす。

 光莉は高校に入ってからずっと同じクラスで、友達という言葉では足りない仲だった。


 一番仲が良くて、一番私のことを知っている親友。


 光莉との関係を言い表すなら、それが最も相応しい言葉だ。

 でも、彼女はもう写真の中にしか存在しない。


 どんなに望んでも、会うことができない。

 あの事故でたった一人の犠牲者となった光莉は、私を残して消えてしまった。

 でも、悲しいとか、辛いとか、そういった気持ちは湧いてこない。


 だって私は、彼女が死んだと聞かされただけで、お葬式にも出ていない。学校に行って、光莉のいない教室を見たら彼女がいないということを理解できるかもしれないけれど、目が覚めたら夏休みに入っていてそれも叶わない。


 だから、私は親友がいなくなったということが未だに理解できないのだ。

 彼女の家へ行けば光莉がいなくなったということがわかるだろうけれど、母親に止められている。そして、私もそれを望んでいない。


 当然だ。

 生き残った私が光莉の家へ行けば、家族は複雑な気持ちになるだろう。

 私は立ち上がって、クローゼットを開ける。

 扉の内側に取り付けられた姿見に、自分の姿を映してみる。


 肩よりも少し長い髪。

 年齢よりも幼く見える丸い目。


 この家に着いてからつきまとっている違和感のせいか、自分の顔さえ他人のもののように見える。


「私、こんな顔だったっけ?」


 頭の中に浮かんだ疑問を口にしながら、鏡を凝視する。


『こんな顔って、そんな酷いこと言わないの。可愛いよ』


 突然、頭の中にはっきりとした声が響く。


「え?」


 予想もしなかったことに、私は勢いよく後ろを見た。


「……いない」


 いなくて当たり前だ。

 むしろ、いたら怖い。

 だって、鏡には私以外映っていなかった。


『いるよ』


 ごくん。

 私は唾をのんで、ぐるりと回る。

 右回りで部屋の中をチェックして、姿見に戻る。

 当然、誰もいない。

 でも、声が聞こえてくる。


『ここだよ、ここ』

「聞こえない。何も聞こえない」


 私は、両手で耳を押さえて音を遮断する。でも、声はそれでも聞こえてきた。


『おーい、遥。聞いてー。ちゃんと聞いてー。私のこと、忘れちゃったの?』


 名前を呼ばれて、耳を押さえていた手を離す。

 声の主を探すべく、きょろきょろと部屋の中を見る。

 それでも、やっぱり誰もいなくて私は声に出して尋ねた。


「……誰?」

『ひかりだって、ひかり』


 私は、月森光莉しか“ひかり”という名前を持つ人を知らない。


 だが、光莉が私の部屋にいるわけがない。彼女は、事故で亡くなった。もし、いたとしたらそれは幽霊で、私を恨んで化けて出てきたとしか考えられない。


「あー、あー。聞こえない。絶対に聞こえない」


 耳を塞ぎ、声を出す。

 光莉を名乗る声に怖くなり、私は自分以外の存在を消すために目も閉じる。


『ちょっと、遥。現実逃避やめてー。私は光莉、光莉だよー!』


 やっぱり声が聞こえてくる。

 目を開けて、部屋を見回しても誰もいない。

 となると、聞こえる声は幽霊以外には考えられなくて、私はぶるりと肩をふるわせた。


「うるさい、うるさい。死んだ人の声が聞こえるなんてあり得ない。こんなの幻聴に決まってる」

『確かに死んでるけど、幻聴じゃないって。それに、恨んで化けて出てきたわけじゃなくて、遥に会いたくて出てきたんだから話聞いてよ』

「じゃあ、証拠。光莉だって証拠見せて」

『そーだなー。誕生日は五月二十一日で、血液型はA型。あってる?』

「あってる。あってるけど、そんなの私以外でも知ってるし、光莉だって証拠にならない」

『じゃあ、玄関の犬。あれの耳、遥が壊したんじゃなくて私が壊した。遊びに来たときに、傘をぶつけちゃって耳が欠けたんだよね。これなら、私だって証拠になる?』

「……思い出した」


 今日、玄関で犬の置物を見たとき、どうして私が壊したと思ったのだろう。


 雨の日、私の家にやってきた光莉が傘を落とした。狙ったわけではない。けれど、見事に傘の柄が犬の耳に命中して砕け散った。真面目な光莉は母親に謝りたいと言ってきたけれど、面倒なことになりそうでそれは却下して、家族には私が壊したと言っておいた。


 これは、私と光莉だけの秘密。

 他の誰も知らない。


「――光莉なの?」


 嘘だ。

 ありえない。

 そう思いながらも尋ねる。


『そうだよ』


 どこからかわからないけれど聞こえてくる声は確かに光莉もので、私は何も言えずにただ泣いた。

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