第3話
どこかからトントンという音が聞こえて暗闇から意識が浮上し、ドンドンという音に目を開けた。
眠い。
布団の上で目を擦る。それでも、寝転がったままごろごろしていると、廊下から「遥、起きてるの?」というお母さんの声が聞こえてくる。
枕元のスマートフォンを見れば午前九時を過ぎたところで、私は飛び起きてドアを開けた。
「大丈夫なの?」
廊下には、不安そうな顔をしたお母さんが立っていた。
どうやら、なかなか起きてこない私を心配して部屋まで来たらしい。
「大丈夫。寝てただけだから」
欠伸をこらえながら答えると、ほっとしたのかお母さんの肩から力が抜ける。
「ならいいけど。朝ご飯の用意ができてるから、早く着替えておりてきて」
「わかった」
短く答えると、お母さんが階段を降りていく。
ドアを閉めて、パジャマから部屋着に着替える。
目覚ましがわりのスマートフォンは、無意識のうちに止めていたらしい。よく眠っていたようで、頭はすっきりとしている。光莉はどうしているのだろうかと頭に彼女のこと思い浮かべると、声が聞こえてきた。
『おはよ』
「おはよ。光莉は眠れた?」
思わず声に出て、口を押さえる。
独り言になってしまうから、気をつけないといけない。
『私は眠くならないし、眠らなくても平気だから』
(そうなんだ)
眠らずにいられるなんて便利そうだと一瞬考えたが、することが何もない状態で一晩過ごすというのも酷くつまらないことのように思えた。実際はどうなのか本人に尋ねてみようかと考えたところで、名前を呼ばれる。
『遥。今日、時間ある?』
(今日どころか、明日も明後日も暇。夏休みだし)
『じゃあ、記念すべき初デートの思い出巡りに行こう』
(その前にご飯食べて、お風呂入りたい。いい?)
昨夜は、記憶を取り戻すきっかけになるかもとアルバムを遅くまで見ていたせいで、疲れてお風呂に入る前に眠ってしまった。出かけるなら、身だしなみを整えたい。
『おっけー』
脳天気と言えるくらい軽い返事が聞こえて、私は部屋を出る。階段を降りてリビングへ入ると、テーブルの上には朝食が並んでいておじさんが席に座っていた。
病室で何度か見た背の高い男の人。
お母さんから、お父さんだよと教えてもらった人。
私は何度見ても、その人を父親だと認識できずにいた。お母さんのことはすぐに母親だとわかったのに、何故かお父さんのことはいつまで経っても父親に思えない。
『土曜の朝から、味噌汁に恨みでもありそうな顔してる』
光莉の声が聞こえて、その通りだと思う。
お父さんは、味噌汁を凝視していた。
「睨みすぎだよね。怖いくらい」
「すまん。ちょっと考え事してた」
光莉への言葉が口に出ていたらしく、お父さんが慌てて味噌汁から目をそらして私を見た。
「あー、ごめん。お父さん、疲れてるのかなって思って」
取り繕うように言って、お父さんの向かい側に座る。すると、すぐにお母さんもやってきて、三人で「いただきます」と声をあわせた。
「遥、調子はどうだ? 痛いところとかないか?」
お父さんが目を合わせずに言う。
病室で初めて会った日。
お父さんをお父さんと認識できなかったその日から、私たちの関係はぎこちないままだった。
「ないよ。調子良いし、午後から出かけようかと思って」
「そうか」
会話は途切れて、私は静かにウインナーや野菜を咀嚼する。
昨日の夜も会話が少なかった。
ずっと昔から、こうなのかはわからない。
家族で食事をしていた記憶も、私の中から消えていた。
結局、たいした話もしないまま食事を終えて部屋へ戻る。着替えを持って脱衣所へ行き、服を脱ぐ。ガラガラとお風呂の扉を開けて、シャワーで体を流す。お湯を止めて正面にある鏡を見れば、自分の体が映っていた。
相変わらず、飽きるほど見ているはずの顔に違和感がある。
なんでだろうと考えながら鏡をじっと見てから、私はくるりと背を向けた。
(……光莉、見えてた?)
確か、彼女は私の目や耳から入ってくるものを共有していると言っていた。と言うことは、光莉は今、私の裸を見ていたということになる。
『見えてたけど、今さらでしょ。裸くらいで騒がなくても』
記憶を辿れば、光莉とは一緒にお風呂に入ったことがあった。だから、今初めて裸を見られたわけではない。
(そうだけど、恥ずかしいかなーって)
『もっと恥ずかしいこともしたし、気にしなくていいって』
「えっ?」
聞き捨てならない台詞に大きな声が出て、浴室に響く。
いやいや、待て待て。
もっと恥ずかしいことって、なに。
私は、光莉とどういう関係だったんだ。
湯船に飛び込んで、膝を抱える。
散り散りになって消えてしまった記憶を集めようと、光莉との過去を頭に思い浮かべる。けれど、彼女が言うような映像は私の中になかった。
『もしかして、忘れてる? 体の隅々まで知っちゃうようなこと、してたってこと』
「そ、それはどういう」
『はっきり言った方が良い?』
にこにこと笑いながら、光莉が言う。
彼女の言葉から推測できることは、二人には体の関係があったということだ。それは考えていた“お付き合い”以上で、私はぶくぶくとお湯の中に沈んだ。
(や、いい)
『それにしても、本当の意味で一つになってしまう日が来るとは思ってなかった』
(そいうい言い方やめてって)
『やだなー、何考えたの。深い意味はないよ?』
からかうように言われて、お湯の中から顔を出す。
頭の中から、くすくすと楽しそうな笑い声が聞こえる。
「あー、もう。うるさい」
外にまで聞こえそうな大声に、光莉が『静かに』と囁く。私はむぎゅっと口を押さえて、お湯に頭まで浸かる。十数えてから顔を上げると、光莉が言った。
『やっぱり、病院で遥に話しかけなくて良かった』
(そうだ。なんで、家に帰ってくるまで私の中にいるって教えてくれなかったの?)
『病院で今みたいにでっかい独り言言うことになったら、可哀想だなと思って』
(……お気遣いありがとうございます)
昨日部屋でしたように、病室でぶつぶつと呟きながら、きょろきょろとしていたら挙動不審すぎて退院が伸びたかもしれない。そう思うとありがたい配慮だけれど、私の中に光莉がいることはもう少し早く知りたかった。
私以外の誰かが私の中にいるなら、それ相応の行動というものがある。隠さなければならないことは何もないが、ありのまま過ぎる自分を見せていたのではないかと不安になる。
もしかしたら、光莉はありのまま過ぎる私も知っているのかもしれないけれど。
私に残されているのは、光莉は親友だったという記憶だけで、彼女がどこまで私という人間を知っているのかは想像もできない。どういった関係だったのかはおおよそ把握できたが、それだけだ。
恋人になってからの二ヵ月間。
記憶は綺麗に抜け落ちていて、破片すら落ちていない。高校に入るまでの記憶だって、不確かだ。アルバムを見ても、ほとんど思い出せなかった。
反対に、恋人になる前の光莉のことはよく覚えている。高校一年生のときに同じクラスになって、それから一年とちょっとのことは鮮明に思い出せる。
記憶はアンバランスで、私を不安にさせる。
積み上げてきた過去のほとんどを失った自分を佐竹遥と呼んで良いのか。――自信がなかった。
私は、小さく息を吐く。
(そう言えば、初デートってどこだったの?)
沈みかけた気持ちを引き上げるように明るく問いかけると、間髪をいれずに光莉が答えた。
『動物園』
(ここからだと、バスで三十分くらいだっけ)
『そう』
髪を乾かして、バスの時間を調べて、お昼を食べて。
やるべきことを考えると、のんびりしている時間はない。
(じゃあ、急ぐね)
私は、勢いよく立ち上がって湯船から出る。
二人で動物園に行った記憶はない。
光莉と一緒に行けば、思い出すのだろうか。
記憶を取り戻すきっかけになるかはわからないけれど、私は動物園に向かうべく髪を洗い始めた。
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