第279話「あ〜ん」
翔の身体は自分の不注意と桜花によって使い物にならなくなってしまったので、申し訳ないが、最後の工程は桜花に全て任せることになってしまった。
しかし、その一方で桜花の準備はとても手際がよく、すいすいと何一つアクシデントが起こるわけでもなく進むので、実際問題、翔が手伝わなかった方が早く終わっていたのかもしれないな、というある種の確信めいたものが翔の心の中に湧いてきた。
料理が手際よくできて、翔のことをとても愛してくれている。そんな女の子が桜花の他にいるだろうか。
年齢、という壁さえなければすぐさま婚姻届を提出しに行くところだが、こればかりは時間という圧倒的な壁が立ち塞がっているのでどうしようも出来ない。
(それにしても……桜花があんなにも積極的な行動に出るとは……)
意外だ、というよりは珍しいな、という思いが強い。
桜花の普段はどちらかと言えば受け身な姿勢だと思っていた。それについては翔が積極的すぎるきらいもあるからだが、少なくとも桜花からという時と翔からという時を比較した場合、明らかな翔からの方が多いだろう。
それが先程は翔が何も出来なくなるほど、ふにゃふにゃにされてしまったのだ。翔が常々桜花にしたいと思っていたことを桜花が何の前触れもなくたった一回で翔の思惑を超えてきたのだ。
「まだ痛みますか?」
「ん?……いや、大丈夫だよ」
「先程からずっと虚空を見つめているようでしたので……」
「ちょっと考え事さ」
「何を考えていたのですか。もしやまた蒼羽くんの……」
「いや、もうそっちは考えてないよ。今は……桜花のことについてかな」
「私の事ですか?」
「そう。……一年のほとんどの時間を共に過ごしてきたけど、それでもやっぱりまだ知らないことが沢山あるな、と」
「それはそうですよ。私は一年程度で全てを分かられるほど薄い女の子ではありません」
「今日だって、ついさっき桜花がこんなにも積極的になるんだって知ったからな」
「……もうっ」
翔が茶化すと桜花はぷくぅ、と頬を膨らませた。翔はそれに笑みを浮かべながらじっと桜花を見つめた。
「もう一年が終わるな」
「そうですね。……翔くんが今年の一年を振り返って漢字を一字で表すなら何ですか?」
しみじみと呟くと桜花が今年の総まとめのようなことを言ってきた。
清水寺のお坊さんが書くようなものだろうか。翔の今年一年を表すとすれば一体何になるのか。
「因みに桜花は何かもう決まっているのか?」
「私は「進」ですかね」
「進歩の進?」
「そうです」
「その理由を聞いてもいいか?」
「私の今年一年の行動を振り返って見た時に、色々なことに挑戦して進んでいたな、と思ったので」
「確かにね。僕の家に来ることもそうだし、僕と一緒に暮らすことも、全部初めての事だったろうし」
翔が過去を振り返ると桜花はこくりと頷いた。確かに桜花にはとても合っているような漢字な気がした。
翔にあっているような漢字はないものだろうか。
そう考えているとふと、自分にとても合っているような一文字を見つけた。
「今、翔くんが思い出していないことが私にとって一番の挑戦だったような気がしますが……。翔くんはどうですか?」
「僕の一文字は「波」かな。今までと変わらない日常生活をまた今年も過ごすんだろうな、なんて思ってたらいきなりびっくりするような美人さんが家に来て、あまつさえ一緒に暮らすってことになって……。それからも色々あったことを踏まえて波乱の一年だったな、と」
翔はしみじみと呟くと安心の溜め息を吐いた。今年一年に起こったことが走馬灯のように脳裏に駆け巡り、翔は忙しかったけど、楽しかったな、と感想を抱く。
特に何かをしたいという訳でもないのに、頑張った高校入試。今となってはその頑張りがなければ桜花と一緒の学校には登校できていなかったわけなのでその頑張りは決して無駄ではなかった。
通い慣れた中学校という場所から年上ばかりの高校という場所へと移る。それだけでも精神の疲労は過酷なものになるのだが、それに加えてプライベートでは万人が目で追ってしまうような美貌を持つ幼馴染と暮らすことになった。
数奇的、とも言えるこの確率はきっと翔と桜花の持っていた運、なのかもしれない。
「今年一年を桜花と過ごせて楽しかったし嬉しかったよ」
「……今年だけ、のように言わないでくださいよ。勘違いしてしまうでしょう?」
「ごめんごめん」
軽く謝る翔に桜花はその手を翔の手に重ねた。
「私の生きてきた中でこの一年は一番楽しかったです。でも、私はこの一年が最高だとは思っていません」
「そ……そうか」
「勘違いしないでくださいよ。……これからをもっと楽しく過ごしたいので、そう言っただけですから」
桜花がふと上部を見上げる。翔もその視線を追うと、その先にはもう少しで12を指し示す長針があった。
今年一年色々あった。そして、次の一年もきっと今年と同じ、いやそれ以上の様々なことが翔や桜花の身に降り掛かることだろう。
それを乗り越えていきたい。ひとりが無理なら助けを呼ぼう。
その声を聞き、必ず駆けつけてくれる人がいるのだから。
かちっと、短針と長針が重なった。
「今年が終わったな」
「いえ、今年は始まったのです」
「そうだな。……新年一発目の挨拶でもしとくか」
翔と桜花は向かい合うように正座し、同時に頭を下げた。
「「新年あけましておめでとうございます」」
「不束者ですが今年もよろしくお願いします」
「僕の方こそ。至らないところしかないけど、一緒にいて後悔はさせないように頑張るよ」
これは翔の今年の目標になりそうだ。
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