第239話「滝行」
「身体は慣れたかな?」
「慣れたといえば慣れたけど……」
「さ、寒いです……」
「別に無理しなくてもいいんだぞ。こんな冬間近にも関わらず滝行なんて」
「いいのですよ。我慢してやります」
翌日、早朝に叩き起された翔は寝惚け顔の状態で言われるままに着替えて、水の中にいた。
桜花や修斗からはあれだけ寝たのにまだ眠たいのか、と呆れられていたが、あの話を聞いていましたなどとはとてもではないが言えたものでは無いので、笑ってはぐらかした。
朝から滝行というのは如何なものであろうか。翔は不平不満を言おうものなら永遠と言ってられるのに、と思いながらも目前まで滝に近づく。
因みに、着替えはテントの中で行った。その時に桜花がいたような気がするが、頭はまだ完全起きていなかったので分からない。だが、特に何も言ってこないので実はいなかったのだろう、と割り切ることにしていた。
「精神統一だよ」
「父さんもしなよ」
「生憎と、私は替えの服を持ってきていなくてね」
修斗は滝行をしないというのだから不満のひとつも出る。
水の中は慣れてしまえば外気温よりも暖かい。しかし、それは慣れてからの話であって、慣れるまではやはり寒い。翔は恒温動物で変温動物ではないのだが、極端に体内温度が下がっているような錯覚を覚えていた。
「自分と向き合って、身を清めるんだよ」
「ん」
何を言っても修斗は水の中に入りそうにはなかったので、これ以上の会話は無駄だと判断した。
「滝にうたれるのですか」
「もう少し暑い日がよかったんだけど、まぁこれが修行だね」
「私もやります」
「……無理だと思ったらすぐにやめる。僕と勝負しようとは考えない。意固地にならない。この三つの条件が呑めるならやってもいい」
「……わかりました」
翔は桜花に頷きを持って返し、一足先に滝の下へと潜り込む。
ここからは自分の心と只管に向き合う時間だ。煩悩を消去し、己が抱え持つ一番大きな問題と向き合う。
翔の場合は桜花のことだろうか。
今までのことを踏まえた上で、これからのことについて。
修斗は翔の想定よりも遥か遠いところまで思考が飛んで言ってしまっていたようだが、今の翔でもお付き合いの次のステップぐらいは頭の片隅で考えてはいる。
しかし、それを成すためには証人のサインと、年齢の問題を解決させなければならない。保証人は修斗と梓に頼めば書いてはくれるだろうが、如何せん年齢の問題は時間が解決してくれるしか方法はない。
翔は今年で16歳であり、その年齢に達するまではあと2年もの歳月が必要となる。
一方の桜花は二ヶ月後に迫る誕生日を迎えるとそのボーダーはクリアする。
いつ記入するかについてはお互いでの話し合いは必要ではあるが、翔の希望としてはできるようになった瞬間に届けに行きたい。
指輪や式の用意もいなければならないと考えるととてもではないが、学生の身分では満足に行うことが出来ない。
(ふ〜む)
翔が考えを捻っていると耳から聞こえる水の音が変わった。それに少し身体に当たる水の向きが変わった。
(隣に桜花が来たのか)
翔は目を閉じたままだったがすぐに気がついた。
桜花は全くの初心者なので、偶に小さく「あぅ……」「さむいよぉ……」と声を漏らしているのが微笑ましい。
翔がうっすらと瞳を開けた。特に理由はない。だが、強いて挙げるとしたら、修斗が何をしているのかがふと気になったから。
その修斗は何やら電話をしているようで少し猫背になり頭をヘコヘコと下げていた。
電話の相手は上司だろうか。
翔はそんな予測をした。修斗は結構な上役なはずなのでその修斗がへこへこするというのはそれ相応の人なのだろう。
「うぅ……」
桜花が寒さに呻きながら翔の手を掴む。水中で掴まれ驚きのあまり素っ頓狂な声が漏れそうになったがぐっと我慢する。
もし修斗に聞かれでもしたら大変だ。滝行の時間を増やされてしまうかもしれない。しかし、そんな翔の思惑とは無縁の桜花はあろう事か翔の傍にぴったりと寄り添って翔の体温を感じていた。
翔自身も寒いと感じているほどなのでそこまで温かくはないだろうが、桜花の呻き声がなくなったのでそれなりに効果はあったらしい。
「どこにいてもらぶらぶだね」
「気の所為だ」
「ははは、翔は意固地だなぁ。もう出てもいいよ」
「タオル」
「ほら」
翔は桜花を抱え込むようにして滝行を終えて陸へと上がった。修斗が差し出してくれたタオルをまずは桜花に使う。
翔が滝行をするのはこれが初めてでは無いので、前回からブランクはあってもそれなりに耐性はついている。だがこの意固地な翔の彼女はそんな耐性もなしに意地だけで翔と同じ時間まで耐えた。
風邪を引いてしまわないように翔は少々雑にではあったものの、身体の水分を取ってやる。
(こういう時に髪が長いと不便だな)
翔には女の子の行う髪の毛の手入れは分からない。どうしても水分を含んでしまった髪の毛に手も足も出なかった。
「翔も風邪引くぞ」
「うわっ」
翔が桜花を拭いていると、修斗が翔の頭をわしゃわしゃとタオルで拭いてくる。
「水分を飛ばしたら早速火で暖まらないと」
「あれ、電話はいいのか?」
「見られてたのか……」
「お呼ばれなのか?」
「まぁ、そんなところかな。会社を抜け出して来てしまったからね。大分、こってり叱られたよ」
「抜け出した……?」
修斗は果たして何を言っているのだろうか。大の大人が会社をこのように簡単に放って来てもいいものなのだろうか。
その答えはまだ就職をしていない翔にも分かる。それはダメだと。怒られても仕方がない。
「家に帰ろうッ!そして父さんは即出国!!」
「やっぱり不味いかな……?私としてはもう少しここにいたいのだが」
「そんな子供みたいなこと言ってる場合かよ。ちゃんと休みを貰ったら帰ってきていいからクビにならないためにも早くアメリカ帰りな」
修斗からの衝撃の事実に翔は驚き、呆れて、そして急がせた。
梓がいながらどうして、と思わなくもないが梓も修斗の手綱をずっと握っている訳では無いし、聞く限りでは会社を抜け出してきた、らしいので目が届かなかったのだろう。
「すまない。そうと決まれば急いで帰らないとな」
「当たり前だッ!母さんにメールしとくからな」
「……会社に泊まる、と言ってあるんだけど」
「知らない」
「翔ぅ〜」
「知らん」
翔は桜花と自分をタオルで拭き、桜花をおぶって急遽、帰宅することになった。
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