第223話「髪型フォームチェンジ」
「翔くん、ちょっといいですか」
「分かった、先に奥へ入っててくれ。今の仕事が片付いたらすぐに行く」
「はい」
翔達が忙しく働いている中、桜花が翔に話しかけた。それ自体は珍しくもなく、先程も話していたばかりなので驚くことでは無いのだが、それにしては急いでいるような切羽詰まった感じが読み取れた。
翔は努めて早く配膳し終えると修正を終えて帰ってきていた現場監督である早坂さんに一言伝えてから、桜花の待つ控え室へと向かった。
開店からずっとフルタイムで働いている翔や桜花には随時こまめな水分補給と休憩を摂るようにとのお達しが来ている。
蛍とカルマは一足早く上がりなので対象は翔と桜花のみだ。
控え室は隣の教室なので、ざわざわと混雑の中を掻い潜って抜け出した。何だ何だ、と訝しむ声が聞こえたが気にしない。
「入るぞ」
「どうぞ」
翔が一声あげてからドアを開ける。控え室として確保できたのはこの教室のみで、着替えも勿論ここで行わなければならない。
もし、着替えていたらと思っての保険だったのだが、杞憂に終わったようで何よりだ。
「翔くんはひとつ、忘れていることがあるのではありませんか?」
「忘れていること?……特に思い浮かばないけど」
「これを見てもですか?」
桜花が手に持っていたそれを見て、翔はあっと声を漏らした。確かにすっかり忘れていた。
接客をする上では欠かしてはならないはずだった大事なこと。
「ワックス……」
「そうですよ。お店に来た方々が翔くんの悪口を言っていたのはちゃんと聞こえていましたし」
「悪口……?あぁ」
悪口とまでは言えないものの、反実仮想である「桜花が良かったなぁ」とかそういうことだ。
だが、桜花には悪口に聞こえたらしい。
「翔くんだって、きちんと身なりを整えれば見違えたようにかっこよくなるのですから」
「それ、素を貶してない?」
「気の所為です」
「それに髪の毛をあげた程度でそんな変わらないだろ」
「またそうやって面倒くさがりなところがでてますよ。私がやりますから翔くんはじっとしていてください」
「えー」
「ほら、こっちです」
桜花は翔の手を引き、そこら辺においてあった椅子に座らせた。桜花は翔の後ろに立ち、わさわさと翔の髪の毛を触る。
桜花のためにワックスを使ったことはあるが、学校行事のために使う羽目になるとは思っていなかった。それがしかも桜花から言い出すなんて。
「理容師さんになった気分です」
「じゃあ、ワックスをお願いします」
「コンセプトなどはお決まりですか?それとも私に任せてくださいますか?」
「お任せしようかな。飛び切りかっこよくしてください」
「お任せを。今回だけは私以外の女性の方々も惚れてしまうようにしてあげます」
気分は田舎の小さな理髪店に通う常連客だった。しかも理容師は若手の美人で、何か失敗をしてしまったとしても笑って済ませられる自信がある。
「気にしてくれたのか」
「……遅れて訊きますか」
「いや、何と言うか。僕のことをよく見てくれているし、聞いてくれているな、と」
「……彼氏ですから、私の」
照れ隠しをするようにわしゃわしゃと翔の髪を乱す。翔は翔でカウンターのように桜花の言葉が刺さり悶え苦しむ。
「そっか」
「あ、勘違いしないでくださいね。私は身なりを整えて私と釣り合うようになんてこれっぽっちも考えていませんから。ただ単に何も知らない人達が翔くんを嘲笑うのが許せないだけですから」
「分かってる。それはそんなに熱弁しなくても分かってるよ」
「そ、そうですか」
「うん」
翔は幸福感を感じていた。
守られている、ということではなく、翔という一人の人間を好ましく思ってくれている人がいて、何も知らない人達へと声を上げる。
そういう人がいることがどうしようもなく翔の心を暖かく満たしていた。
「ありがとう。僕は幸せ者だよ」
「何を言っているのですか。それは私のセリフです」
「あと何分で交代?もうそろそろ我慢の限界が」
「あと三十分程で終わりです。それからは二人でどこかに遊びに行きましょう」
桜花は手を休めることなく会話を続ける。
桜花の手つきは妙に慣れていて安心感があり、とても癒される。
「終わりました。かっこよく仕上がりましたよ」
「ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
翔は立ち上がり、桜花の方をむく。その瞬間に桜花の頬が薄らと赤みが刺したのを確認した。どうやらかなり、凝ったらしい。桜花が無意識で照れるほどには完成したのだろう。
感謝と我慢の限界と乱雑に置かれた机と椅子のある教室に二人きり、という状況が翔の思考を段々と奪っていく。
桜花と見つめ合いながら一歩ずつ距離を縮めていく。
桜花が目を閉じた。翔は意を決して唇を重ねようとした、そのとき、
「いつまで準備してるの?!後ちょっとだけ頑張って!」
と、急に早坂さんが割り込んできた。
刹那に翔は桜花を守るように早坂さんに背中を向け、桜花を隠した。
重なりそうになった唇は瞬間的に離れて、したいのにできなかったというもどかしさが翔と桜花の心の中でもやっと居座るのだった。
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