第224話「雲泥の差を体感する」
翔が教室、いやこの場合は店か、に帰ると一緒に働いていたクラスメイトの動きがぴったりと動かなくなった。
理由は考えるよりも明らかで、翔の纏う雰囲気が変わっているからである。
先程まで気怠さが隠す気もなく漏れ出ており、翔自身にはその気がなくても仕事に対する真面目さが皆無にしか思えなかった。
しかし、行動や気遣いからクラスメイト達は翔は決して気怠いと思ってこの文化祭をタキシード姿で接客しているわけではないのだな、と思い直したのだ。
それがこの気持ちの入れようである。
たった髪の毛をあげて、固めただけなのに、そこに秘められた力は比べ物にならないほどに大きかった。
「あと三十分程度しかないけど、精一杯するからよろしく」
「あ、うん。よろしく……」
辛うじて翔の言葉に返答した委員長もどこか虚無空間を見つめているようだった。
翔はそれを何となく察して、何もそこまで驚くこともないだろうに、と心の中で苦笑を漏らす。
ふと、桜花と目が合った。視線で「よかったですね」と言われているような気がして、気恥ずかしくなってしまった。
翔は全く気にしていなかったはずなのにこうして飯能の違いを窺って、その返ってくる反応に一喜一憂している今を見返すと、桜花に感謝しなければならない、と思う。
「おぉ、あの人かっこいいな」
「何あの人?!めっちゃタイプなんですけど……!!」
今までとは打って変わって好評の声が翔の耳に届く。何だかとてもむず痒い。
褒められる、ということ自体が珍しく、どうしようもなく手の届かない心の周りをうっすらと撫でられているような感じに襲われる。
「一気に看板になったわね」
「そうかな。まだ桜花の方が人気は高いと思うけど」
「それでもよ。これで響谷くんが双葉ちゃんの代わりができるようになったってことよ」
「それは……よかったよ」
「ところで、一体どんな魔法を使ったのかしら」
「ワックスだよ。ただそれだけだ」
「ふ〜ん。ま、そういうことにしておいてあげるわ。二人で秘密事もあるでしょうしね」
「あの……盛大に勘違いしてると思うよ」
現場監督である早坂さんは首を突っ込んでくる野次馬のおばちゃんのようだった。
翔は初めてしっかりと早坂さんと言葉を交わしたのだが、このような感じの人だとは思わなかった。
決して落胆などという訳ではなく、新たな一面を知れた、という一種の満足感のようなものの方が強かった。
「翔くん、オーダーお願いします」
「分かった!」
翔が目立つようになったとはいえ、仕事が楽になった訳では無い。残りの30分は何としてもやりきらなければならない。
桜花もそのつもりで全力で取り組んでいる。
「御注文はお決まりですか?」
翔が訊ね、それをメモしていく。そんななか、早坂さんと委員長が何やら密接に話している姿が見えて、少し気になった。
普段なら何気ない日常の最中の出来事で気に求めることすらしないのだが、タイミングが良すぎて、どうしても自分のことについて話そうとしているように思えてつい気になった。
そして、その予想は当たっていた。
よくよく耳を澄ませば、翔のことについて何やら話していた。
「あの髪型……。どうして初めからしなかったのか」
「響谷くん本人がワックスをかけて、髪を上げてきたようには思えなかったわ。たぶん、双葉ちゃんの影響ね」
「双葉さんの?」
「さっきまで、二人で控え室にいたの。もしかしたらそこでワックスでも塗ってたのかもしれないわ」
ご名答だった。
早坂さんにはキス寸前の一番のところで扉を開けられただけなのだが、まるで見てきたかのように語っていた。しかもそれが仮説ではなくほとんど真実であるのか驚きだ。
「どうして急にワックスを?」
「それが気になるなら双葉ちゃんに直接聞けばいいわ。委員長に聞ける度量があれば、の話だけどね」
「早坂さんは?」
「私?私にはないわよ。だから何も聞かずにただ小さく応援するだけよ」
早坂さんは間違いなくとてもいい人なのだろう。
四月から同じクラスだったはずなのに、名前を覚え始めたのは桜花がふと会話の中に早坂さんの名前を出したからだった。
翔が着ている、このタキシードの採寸から全て製作してくれた、という驚きのあまり目が飛び出そうなことをしてくれた人でもある。
「翔くん、どうしましたか?ぼーっとしているようですが」
「いや、何でもないよ。本当に」
「翔くんが妙に念押しする時は何かあるときです」
「……もしかしてそれって僕の癖?」
「そうかもしれませんね。……だから何があったのですか?」
「何があったっているわけじゃないよ。ただ早坂さんはいい人だな、と思ってただけ」
「そうですね。とても優しい方です」
周りから見るとぼーっとしている翔はおかしな人に映っていただろう。
桜花が隣に来てくれて助かった。客の数人が「シャッターチャンスだ!」と騒いでいるのは知らない。知りたくない。
「写真は撮られたくない……」
「私もできれば……」
「アルバム用の写真は撮るけど。あれは何と言ったって」
「翔くんに撮られるのは構いません。それに……私達の思い出、ですからね」
「大事にしていきたい」
翔がそう言い切った時。
現場監督と現場指揮から桜花と翔に休憩の通達がなされた。
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