第210話「おやすみ前に」


 夜も更けて、そろそろ寝ようか、という時刻になってきた。相変わらず、御天道様は御機嫌が麗しくないようでグルルルと犬が吠えるのを我慢するように燻っていた。


「どこで寝るのですか」

「僕のベッドはシングルだし……。桜花の部屋にはそもそも入れないし」

「うっ……。もう少しだけ待ってください。まだ心の準備が」

「母さんが帰ってきたら桜花の心が準備できなくても突撃するからね」

「……いじわる」


 翔がするというわけではなく、恐らくは梓に連れていかれる、というのが正しいような気がした。


 ともあれ、今は寝床の問題だ。


 翔のベッドは使えないこともないが、狭すぎるだろう。それに、今日は眠れても、いざ一人になったときに、桜花の匂いが残っていて寝られるかどうか分からないという桜花には言い出せない理由もある。


「父さん達の寝室で寝るか」

「布団も掃除しましたからね」

「大変だったなぁ」


 翔が当時のことを思い出し、しみじみと呟く。

 修斗が渡米してから直ぐに、桜花が「使わなくなったのなら、一度、洗濯をしましょう」と提案して、大掃除(両親のベッドのみ)が始まった。


 そんなわけで綺麗な状態で使えるといえば使える。

 しかも、修斗は寝室をとことんまでに凝っていて、照明も橙色の夜に合う色になっている。いい例えとしてあげるならば、ホテルの寝室だろうか。


「そろそろ寝る?」

「今何時ですか」

「んー、日付跨ぎそう」

「寝ますか」


 桜花はその日には寝てしまい性格の持ち主で、平日も、テスト期間中であっても、12時前には寝ていることが多い。


 翔は膝の上に座っている桜花の上体を左から軽く押して倒させた。何の抵抗もなくこてんと倒れた桜花を翔は抱き抱えて立ち上がった。


 俗に言う「お姫様抱っこ」である。


「手、回して」

「……一人で行けます」

「僕が運びたいだけだから」


 お姫様抱っこは姫の方も王子の首に手を回さなければならない。でなければ、安定性が低下してしまう。


 桜花は翔の首にそっと腕を回す。


「重いでしょう?」

「馬鹿言え。ちゃんと食べてる?って疑うほど軽いよ」

「食べてますよ。いつも見てるでしょう?」

「騎士王並みに食べないといけないのかもな」


 翔がそう言うと、桜花は「騎士……王?」と不思議そうな顔をしていた。


「まぁそれはいいや。降ろすよ」

「はい」


 寝室に辿り着き、ベッドに桜花を降ろす。そして、桜花が反対側を向いている今の内に、開けっ放しになっていたクローゼットを締める。

 表立っては見えていないが、奥の方にふと少数文字が見えたので慌てて閉めた。


「どうしましたか?」

「いや、クローゼットが開いてたから」

「幽霊がいるかもしれません」

「そんな馬鹿な……」

「翔くんの後ろに」


 桜花の迫真とも言える演技に気圧されおそるおそる後ろを振り向く。


 ……。


 しかし、やはり、そこには何もいなかった。

 翔が桜花を睨むと桜花はくすくすと笑っていた。

 すっかり騙された翔は思い切り跳躍し、桜花の元へとダイブした。

 服を脱がないタイプのルパンダイブである。


「ちょっとだけ信じてしまった」

「本当にちょっとだけですか?怖そうに振り返っていましたけど」

「桜花の後ろにもいるぞ」

「翔くん、守ってください」

「信じてない……」


 信じるも何も嘘なのだが。


 翔は結局、桜花に信じて貰えず、それの腹いせもあって、桜花に抱きついた。


 横になって抱き合うのは初めてだな、と何となく思った。普通にハグをするよりもより大人な感じがした。


 お互いの吐息がかかりあう。

 もう眠たいのだろうか。桜花の瞳はとろんととろけそうな程になっていて、そのあどけない表情に翔はどきまぎしてしまう。


「翔くん」

「うん?」

「好きな人はいますか?」

「急な恋バナ?!」


 翔がツッコミを入れると桜花はうふふ、と余裕のある微小を浮かべていた。


「来年の修学旅行ではこのような話をするのでしょう?」

「それはするかもしれないけど、桜花の女友達とだし、ましてや好きな人に好きな人は、とは絶対に聞かれないから」

「そうなのですか」

「え、女子は女子で寝るんだよ?」

「翔くんとは寝られないのですか」

「……お忍びすれば」


 途端にきらきらと瞳を輝かせる桜花に翔は苦笑が漏れた。

 いつもよりも心做しか顔に表情が出ているような気がする。


「それで……。翔くんの好きな人は?」

「えぇ……。話を戻すの?」

「勿論です」

「……桜花です」

「ふふっ」


 翔は桜花が控えめにいつまでも嬉しそうに笑っているので何だか自分の言ったことが恥ずかしく思えて仕方がなかった。


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