第209話「まだいちゃいちゃ」
何とも言えない雰囲気になってしまい、どこかぎこちなく、お風呂タイムは終了した。
背中には未だにあの特有の感覚が残っており、それを思い出す度に自分の頬が熱を帯びているのを感じた。
「じゃあ、行くよ?」
「はい」
しかし、まだ夢が覚めるには早い。二人は距離をとる、よりも逆に密接に繋がって、忘れようとしていた。
最早、暗黙の了解でお風呂のことに関しては触れないことになった。
翔は背中を流してくれたお礼と全く罪では無いのだが、罪滅ぼしのために、桜花の髪の毛を乾かすことにした。
桜花は今までに翔がそんなことを言ってきたことがなかったので驚いたらしく、目をぱちくりと瞬きさせて、そのままこくりと頷いた。
翔はぽんぽんと自分の膝を叩き、合図する。
手にはドライヤーとクシを持っている。
桜花は翔に背を向けるようにして翔の膝に座る。一緒に入っていたにも関わらず、甘い匂いに思わず後ろから抱きしめたくなってしまう。
桜花特有の匂いということなのだろうか。脳の一番反応する場所に直通して届いているような錯覚を覚えながらも翔は慣れない手つきでドライヤーの電源を入れた。
翔がドライヤーを使うことはほとんどない。髪を切りに行くことを忘れて、一時期、相当に伸びてしまったことがある。その時に使った程度で、今程の長さではタオルと自然乾燥だけで充分だ。
そのため、使い方からして、使い慣れた感じではなくどちらかと言えば初心者のそれだったが、そこまで操作が難しい機器でもない。
翔はすぐに使いこなした。
「どうかな?桜花が自分でするほうがちゃんとしてるだろうけど」
「気持ちいいです。私がするよりも上手ですよ」
桜花も上手く乗せてくれるので、翔は伸び伸びと桜花の髪の毛を乾かしていく。たまにクシを入れてやることも忘れない。
桜花の髪は手入れが行き届いていて、枝毛ひとつない。翔がしてしまうことで髪質を痛めてしまうのではないか、と心配したが、一日程度ならそこまで変わりはないだろうし、何よりやってみたかった。
「綺麗な髪だよな。さらさらで輝いていて……」
「褒めても何も出ませんよ。私が喜ぶだけです」
「それで充分さ」
「翔くんにはご褒美にもう少しやらせてあげます」
「ははっ。ありがたき幸せ」
「私は武士ではないですよ」
翔の位置からでは桜花の表情を窺うことは出来ないが、翔も桜花も心から嬉しそうに笑っていた。
カルマが見れば「楽しそうなカップル、いやバカップルだな」と噛み締めながら言いそうな程だった。
「どこか足りないところはある?」
「もう少し髪の毛の先端をお願いします。でもあまり強い熱を当てると傷みますから冷風で構いませんよ」
「ん」
翔の気分は最早、近くの理容店で働くアルバイトの感覚だった。
的確に指示をくれるのでとてもやりやすい。
ただ翔としては気になる点が一つだけ。
「桜花……。妙に緊張してない?」
「し、してないですよ」
言葉の意味をそのまま受け取ると「してない」になるが、言い淀んだことと、いつまでも背筋が立っていて、一向に翔へと身体を預けてくる様子がない。
これは明らかに先程のお風呂を引き摺っているのだろう。
「じゃあどうしてそんなにカチコチなの?」
「私は硬くないです。柔らかいですからね」
「柔らか……。まぁ、柔らかいな」
事実は事実なので、認めるしかない。
しかし、翔が言いたいのはそのような硬いではなく、リラックスしていない状態を聞きたかった。
「そうですよ。翔くんはよく知っている……はず……です」
「どうして自分で傷を広げに行ったの?!」
かぁっと瞬間的に桜花の頬と耳までも赤くなった。
翔も桜花の言いたいことには直ぐに気づいた。
「私が思い出して欲しかったのは……。手を繋いだ時とか、ハグをした時とかで。先程のことは早く記憶から消してください」
「言われる度に覚えちゃうな」
「……」
「ごめん、忘れられるように頑張る」
桜花があまりにも引いたような声色で翔を攻めたので、翔は小さな声で細々と意気込みを話した。
しかし、男たるもの忘れなれないものがある。それは人それぞれで千差万別。
だが、その中で一つだけ男ならば共通のものが一つ。それはラッキースケベ、というやつである。いや、それだけではなく、結城リトが経験する全てのことだ。
「終わりっ。そんなに怒らないで」
「怒ってません」
「本当?」
翔はそう言って先程からずっとうずうずしていた、後ろから桜花を抱き締める、ということをやってみた。
「な、何ですか急に」
「どうしても抱き締めたくなって」
「し、してもいいですけど急には困ります。私も心の準備が……あるので」
「こればっかりは無理」
衝動的なものなので、事前承諾は無理である。
しかし、桜花も「心の準備」があるといいつつも、翔の腕を解こうとはせず、抱き寄せられるままになっていた。
桜花の肩口に顔を乗せ、耳元で囁いた。
「桜花、今日は一緒に寝よう」
「は、はは反則です」
耳が弱い桜花が慌てふためいながら抗議するも、翔が再び耳元で囁いてやると「ん〜〜ッ!!」と耐えるようにもがいていた。
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