第208話「お背中お流しします」
「ここ座ってください」
「一人でもできるよ」
「まぁまぁいいですから。私にさせてください」
「……む」
翔は椅子に座らされていた。というのも、桜花が日頃の感謝を込めて、背中を流したいというのだ。
翔は当然断った。翔が桜花にしてやることなど少ないし、逆に助けられたことの方が多い。
どちらかと言えば背中を流すのは桜花ではなく、翔だろう。
しかし、いつまでも渋っていても桜花が折れてくれないのは初めて会った時から分かっていたことだ。
意固地な桜花に翔は遂に折れたのだった。
「頭から行きますね」
「えっ?!背中を流すんじゃなかったの?!」
「翔くんの頭を見ていたら触りたくなりました」
翔がそれに答える前にざばーっと頭にお湯をかけられる。
鏡から桜花の動作を覗き見る。
シャンプーを手につけ、少し馴染ませて翔の頭につける。
翔の髪の毛はなかなかの曲者で、頭を洗う時にはいつも「もう少しサラサラだったらなぁ」とないものねだりをしている。
しかし、今日は何故か別格に気持ちが良かった。
理容室で、髪の毛をセット、またはカットしてもらう時に、経験があるかもしれないが、とても気持ちよくなって眠たくなる時がある。
それは頭皮に刺激を与えられているからである。
今回も桜花に頭皮へと刺激を与えられているからだと分かっていてもいつも以上に気持ちがいい。身体の全てを預けているような、そんな錯覚を持つ。
「気持ちいいですか?」
「うん、力加減もちょうどいい。極楽極楽」
「おじいちゃんみたいになっていますよ」
桜花がくすりと微笑む。
翔はゆっくりと瞼を落とした。別に目に泡が入った訳ではなく、ただ単に気持ちよくなったからだ。
桜花は両手で翔の髪の毛を好きなように弄っていた。
勿論、洗っているのは大前提として、洗い方を少しずつ変えてみたり、翔が堪らず声を漏らした部分を重点的に弄ってくる。
「寝ないでくださいよ。翔くんを寝室まで運べる力はありませんからね」
「僕を運ぼうとはしてくれるんだね。まぁ、寝ないけど」
「お湯かけますよ」
「ん」
翔は酸素をいっぱり取り込む。水泳で鍛えた肺活量は衰えを見えたとはいえまだまだ使える。桜花が次のお湯をかけるまでは平気で保たせることが出来た。
「次こそ背中を流します」
「背中だけでいいからね?」
「他にするところがあればしますけど……」
「いや、ないよ!ないから」
翔がぶんぶんと首を振りながら否定すると「怪しいですね」と訝しげな視線を向けられる。
背中をすれば、後は腹部、前の方がないことはないが、前はデリケートなので自分でするほうが賢明だろう。
桜花にはまだ早い。
桜花は翔が何も言ってくれないので諦めたらしく、翔のボディタオルにボディソープを付けて、背中を擦り始めた。
「おぉ……。なんかこしょばゆいな」
「肌が弱いのですか?」
「いや、そういう訳では無いと思うんだけど。変に力が入っちゃうな……」
翔が背中を洗う時には背中に対して平行に力が働いて、擦るようにしている。しかし、桜花は翔の背中に対して垂直に力を加えているので、より力が加わり、変に力んでしまい、こしょばゆく感じる。
「あ」
「ん?どうした?」
「ホクロを見つけました」
「背中にあった?」
「はい。ありますよ、えっと……。ここと、ここです」
桜花が翔のホクロの部分を指で押す。指圧がかかり、翔は危うく声を漏らしそうになったが、何とか留めた。
自分で見えないところだったので、背中にホクロがあったのは初耳だった。
「こしょばゆい……」
「ごめんなさい」
「いいよいいよ。初めて知ったよ、そんな所にホクロがあるなんて」
桜花が謝るので翔はすぐに取り繕った。ホクロをつつかれたぐらいで怒る人間ではない。ただ率直な感想を口にしただけで、咎めるつもりはなかった。
桜花は「私も初めて知りました」と嬉しそうに微笑みながらごしごしと翔の背中を洗う。
翔は桜花の姿を見ながら何をする訳でもなくぼーっとしていた。やってもらえるのは嬉しいが手持ち無沙汰になるのが、少しだけネックである。
それは一種の油断とも呼べるものだった。
天空で燻っていた雷がついに耐えれなくなり地上に落ちる。
ドガーンッ!!
風呂場からでも充分聞こえたそれに続けて桜花が小さく「ひゃっ」と漏らす。
その声を聞いた後すぐに、背中にとすっと何が当たった。
何か、などと遠回しな言い方をしても仕方がない。
「桜花……?」
「うぅ……」
桜花は咄嗟にしがみつける何かを探したのだろう。
それで、偶然見つけたのが翔の背中だったのだ。
有り体にいえば、桜花は翔に抱きつく形となっていた。
小さいが確かに伝わる柔らかな感触。その先には感じたことのない未知の世界が埋まっていた。
あろう事か腕までがっちり回されていて、もう少し下であれば翔の息子の危険地域だった。
「ちょっ……?!」
「あ、ご……ごめんなさい」
「分かったから、落ち着いて。とりあえず離れようか」
翔が努めて穏やかな声音で言うと、回されていた腕は離れて、背中にあった感触もなくなった。
翔が振り返り、桜花の表情を窺うと、桜花は顔を真っ赤に染め、今までは平気そうな顔をしていたのに急に胸を隠して目には涙を浮かべていた。
翔も息子が臨戦態勢であったことや、何となく桜花を見てはいけないような気がして、そっと元に戻った。
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