第207話「ちゃぽん」
二人で浸かると溜めていたお湯が若干溢れた。翔と桜花の体積分が溢れて出てしまったのだ。
それは翔も桜花も雑学の範疇でわかっていた。
しかし、それはそれとして。
お風呂に浸かるという行為がこれ程までに緊張するものだとは思ってもいなかった。
とりあえず、恥ずかしいのもあり、横並びで座っていた。
翔の家の浴槽は普通の家庭にしては大きい方で、大人の身体に近い、翔達が二人で浸かっても充分な広さがあった。
元々、修斗と梓が一緒に入るために大きめに作ったらしい。
修斗の仕事が忙しくなり、翔が覚えている範疇では両親が一緒に風呂へ入ったのを見た事はない。
唯一、例外としてあるのは翔がまだ幼い時の家族風呂ぐらいだ。
翔も桜花も何も思い浮かぶことがないようで、無言の状態が続く。外の雷が燻る音や、かけ湯をした際の水滴がぽたぽたと滴る音が聞こえる。
翔は桜花の右側に座っていたのだが、どうしても左側を見づらくなっていた。
裸で一緒に、というのは勿論だが、先程のキスの余韻も翔の思考をじりじりと攻めあげてくる。
溜めたばかりなので、それなりに湯気が仕事をしているものの、アニメーションのものほど、しっかりと仕事をしている訳では無いので、油断をすると見えてしまう。
職務怠慢である。
「翔くん」
「はいっ?!何?!」
声が上擦った。
急に話しかけられるとも思っていなかったし、桜花が水中で翔の反応を確かめるように手にぎゅっと力を入れたからだった。
「やっぱり、嫌でしたか?」
「ん?」
「私と一緒にお風呂に入ることです。先程からずっと、翔くんは私とは反対方向ばかりに目が向かっていて……」
「いや、えっとね?」
それには空よりも高く、海よりも低い深い訳があるのだが、その理由を馬鹿正直に「桜花の裸を見てしまいそうだから避けてる」とは到底言えなかった。
それを意識していると桜花に知られた時点で翔の信頼はなくなってしまうだろう。もしくは今日以降、変態認定されてもおかしくない。
「考え事をしてたんだ」
「考え事ですか?」
「そう。どうして桜花は僕とお風呂に入っているのかなって」
「それは私がお願いしたからです」
「まぁそれはそうだけど。僕が言いたいのはいつもは絶対にそんなことを言わないのに、雷が怖いとはいえ裸の付き合いまで許すなんて意外だな、と」
「それは……」
雷が怖いから、パニックに陥って一緒に居てもらいたい一心で翔をお風呂まで連れ回しているのか。
その考えもあるにはあるだろうが、ここまで突飛な行動をする理由としては少し弱い気がする。
翔は目前の光景や自分の置かれた立場について考えることを放棄するためにこうして別のものを考えていた。
「……前に翔くんが朝日を見るために温泉に入っていたことがありましたよね」
「あぁ、あの時の」
翔は直ぐに思い出す。
「私は翔くんが入っていることを知って、入りました」
「……じゃないと、タオルは巻かないよな」
一人でゆっくりしたい時にタオルなどという肌にぴったり密着するようなものを着けて、水に浸かることはないだろう。
「翔くんと一緒に入りたくて」
「……」
翔は何も言えなかった。あの時の光景が鮮明に思い出されてからだった。あの、朝日に照らされて艶めかしく映る桜花の姿は翔の気持ちを簡単に突き動かすほどだった。
「私に見惚れている翔くんが可愛らしかった、というのもありますけど」
「え、何で知ってるの?」
「あの瞳と表情は……。誰でも分かります」
桜花はそう言って顔を沈めて、ぶくぶくと泡を作る。
まさか、その時の翔の表情を思い出して照れている訳では無いだろうが、自分の顔を見ることの出来ない翔は恥ずかしさに顔を赤面させるしか無かった。
「……その、前みたいな表情を見たくて僕を誘ったのか?」
「……」
こくりと頷きを返される。
「だから……私の方を向いてください」
「無茶苦茶な……」
「強引に向かせますよ」
「向きます!向きますよ!」
裸の状態で今よりも密着する、または寄り添う形になると翔は思考が退化してしまう可能性がある。
翔は桜花に半ば強制的に桜花の方を向かされる。
そして、ごくりと生唾を飲み込んだ。
そこには小さく丸まった精霊がいた。妖精という表現はエミリアたんが怒るので、精霊が妥当だろう。
しなやかな肢体と火照った頬。辛うじて見える鎖骨のラインがとても艶めかしい。
顔は言うまでもなく美形なので、改めて外見の完璧さに翔は恋心を奪われていくのを感じた。
そんな子と手を繋いで、風呂に入っている、と誰が予想できただろうか。
翔自身も予想出来ていないのだ。
「やっとこっち向いてくれましたね」
「あぁ……」
桜花が安心したような声を漏らす。
(かわ、かわっ、かわわわ……?!?!)
翔の思考はショートしていた。
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