第206話「白い湯気、仕事して」
お湯はりが終わったらしく、遂に運命の時がやってきた。
翔はあれからすっかり緊張してしまい、何一つ言葉を発することなく刻一刻と進んでいく時計を眺めていた。
早く一緒に入りたい、というわけではない。むしろ逆に近い。
高校一年生で異性、それもかなり好意を寄せている人と文字通りの裸の付き合いをすることになるとは思ってもいなかった。
一緒に入るだけでそれ以上のことは何もするつもりはなかった。だが、それだけで充分過ぎるほどに危ない行為である。
翔は自分だけでこんなにも慌てているように思えて気が気ではなかった。手を繋いで、いつもよりも格段に近い距離にいる桜花が今はとても遠く感じる。
それは、翔と一緒に入ることに抵抗感はまるでなさそうだったからだ。
付き合っている以上は男として見られているには間違いないだろうが、それでも簡単に了承するか、という疑問が残る。
翔が悶々と悩んでいると、桜花は手を繋いでいない方の手でくいっと翔の服を引っ張る。
翔は考え事をしていたせいか、すぐには気づけず、桜花に大きく揺さぶられ、ようやく現実に意識を戻した。
変にいつもよりも近いためにどきっとしてしまう。
一生慣れそうにないな、と諦め半分で「どうした?」と訊ねる。
「翔くん、お風呂が湧きました」
「溜まったか。風呂……行くか?」
「えぇ。行きましょう」
翔は重い足取りで脱衣所へと向かった。
いつしか、桜花の着替え途中を目撃したことがあったな、と思い出す。あの時はよく見る間もなくすぐに扉を閉めてしまったので、桜花の姿をまじまじと見ることは出来なかったが、今からはそれとは比べ物にならないほどなのか、と期待よりも若干、不安が大きい。
「脱衣の時は手を離す?」
「ちょうど雷が鳴ったらどうするのですか。どうしてか今日は間が悪い時にばかり雷が落ちるので嫌です」
「でも……脱げない」
「私が脱がしてあげましょうか?」
滅多にない甘美な問い掛けに翔はぐっと言葉を詰まらせる。
嗜好趣味からすれば、またとない提案であるが、それを現実で桜花にしてもらっていいものか。いや、いいわけないだろう、と反語にも似た自問自答で翔は首を振る。
嗜好趣味を満足させるのはそれなりの動画で充分だ。この家にも探せば修斗のものが眠っている。
「僕一人でできるよ。幼稚園児じゃないんだし」
「懐かしいですね。園児の時も一緒に入りましたよね」
「え……。ごめん、全く覚えてない」
「では、これは私だけの秘密、ということで」
「ちょっと悔しい」
成長が著しいために今と昔を比べるのは色々と宜しくない気がした。
桜花は幼稚園児の時の翔と風呂に入る気でいるのだろうか。
翔が再び、深く思考しようとしたところで桜花が私服を脱ぎ始めた。翔は咄嗟に顔を背ける。そんなことをすれば、変に勘違いされてしまいかねなかったが、頭で考えるよりも先に行動してしまった。
手が一瞬、離され、すぐに繋ぎ直される。恐らくは反対の手であろう。
翔もとりあえず上半身だけは脱ごう、と腹を括り、脱いだ。その時にもやはり、手は離れてすぐに繋ぎ直される。
しかし、今度は右手と左手で、繋ぎやすい方の手同士が重なり合っていた。
「いい身体ですね」
「これでも運動部には所属してないよ」
「知ってますよ。翔くんは食事量が少ないですからでしょうね」
遠回しにもっと食べろ、と言われているような気がする。
翔はうっすらと割れかけている己の腹筋を擦りながら「僕の胃は小さいからな」と濁した。
桜花は微笑むと、翔の腹をぷにぷにとつついた。
「水泳の名残ですかね。奥に筋肉があります」
「いや、筋肉なかったら僕立ててないから。水泳なぁ……。今度気が向けば」
「それは気が向かない言い方ですよ」
桜花は翔に的確なツッコミをいれる。
翔はそれに何か言い返そうとしたとき、ぷちっと音が鳴ったのを聞き逃さなかった。
そして再び桜花とは違う方向を見る。
「翔くんはズボンを履いたままでお風呂に入るのですか?」
「タオル巻こうかしら」
「乙女チックに言ってもダメです。私だって恥ずかしいので……早くしてください」
「は、はい……」
そうまでして言われてしまうと翔は何も言い返せない。惚れたが故に何も言えないのだ。
翔はもう一度、腹を括り、
(えぇいっ!ままよ!)
この世に生を受けて降り立った当時の姿へと成り代わる。
脱いだからには急がねばならない。我が家の脱衣所で二人全裸で待機しているのはただの変態である。しかも、季節は秋口になって段々と冷えてきている。
「さぁ入るぞ」
「待ってください」
ん?と翔が振り返った時に柔らかく、暖かい何かが、唇に触れる。
「私の我儘に付き合ってくれてありがとうございます」
「……!?!?」
視界が真っ白になり、危うく平衡感覚を失って倒れるところだったが、桜花が風呂場へと引いてくれるおかげで何とか助かった。
翔は奇襲攻撃を受けて、お風呂場へと入場した。
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