第184話「そろそろ着替えます」


 兎にも角にも昼食を食べなければならない、ということで、翔はむくりと起き上がり、もう一度桜花にお礼を言った。


 昼食時も一緒に食べていたのだが、どうしても桜花の仕草一つ一つに余裕があり、逆に翔の方はたっぷり寝てしまった、恥ずかしい……と合わせる顔がない。


 ささっと食べて翔は自室へと篭った。

 桜花は翔の感情全てが分かっている、とでも言いたげに微笑を浮かべて見送っただけだった。


「それが2時間程前の話……」


 長い回想を終えて現実時間へと戻ってくる。

 翔は自室に篭もり、溜め込んでいた小説などを読み漁っていたのだが、いつの間にか時間が押してきている。


 桜花はあれから一向に何も話しかけてくることは無かった。

 それがどうしようもなく翔の心を掻き乱してくる。


 翔はその内なる何かに蓋をするように立ち上がり、クローゼットにしまってあった浴衣に着替える。


 着方は最早、我流になってしまっているが、兎も角も着れたのでいいだろう。


 浴衣で行くというのは前々から桜花と約束していたことだ。浴衣を着ていく、と前に言っていたカルマ達が当日にちゃんと浴衣姿なのかどうかは分からないが、花火を楽しむのならば浴衣で風流を感じるのも乙なものだろう。


 楽しみだな、と素直にそう感じた。

 いや、違う。

 翔は自分の考えを正した。


 一緒に楽しむであろう桜花がどんな表情を見せてくれるのかが楽しみなのだ。

 花火を見るだけでも充分楽しめるだろうが、好きな人と一緒に楽しむのが一番だ。


 翔は自分の頬をばちっと叩いた。


 気合いと覚悟を決める。


 翔は緊張してしまっているようでずかずかといつもよりも大股で部屋を闊歩する。取り敢えず出ようと扉に手をかける。


「翔くん。そろそろ行きません……か?」

「お、桜花……。うん、行こうか」


 ばったり鉢合わせしてしまった。

 どちらも愛しい人が目の前に突然現れたので、困惑してしまった。


「やっぱり、綺麗だな」

「……あ、ありがとうございます」


 桜花も翔と同じ考えだったのか、浴衣姿に着替えていた。

 前と同じ浴衣ではあるが、何度見ても綺麗なものは綺麗なので、翔は初めて見た時と同じように見蕩れてしまった。


「翔くん、もう少しこちらへ」

「ん」


 見蕩れていると桜花にこいこいと手招きされるので近付くと、屈めと指示されたのでその通りにする。


「もう少し細部まで拘りましょう?」

「……服は着れたらいいだろ」


 桜花のお小言に翔は小声で返した。

 しかし、桜花には普通に聞こえていたらしく、身なりを整えてくれた後に鼻を小突かれる。


「では質問です。私が二人いると仮定してください」

「桜花が二人?」

「そうです。そして片方の私はだらしなくぼさぼさの髪をしています。来ている服もぼろぼろの物です」

「貧乏人なのか……?」

「普通にお金ぐらいはありますよ。そしてもう片方はきっちりと身なりを整えている私です。では、翔くん。どちらの私が好きですか?」

「どっちも」


 翔は即答した。

 そこに迷う余地はない。

 あと選ぶ余地もない。


 桜花はそういうことではない、と翔の腕を揺するが、翔は酷く真面目に答えてこれなので、疑問符を浮かべることしか出来ない。


「強いて言うなら?」

「どちらもだ。……選択肢が桜花の時点で僕が選べないのをわかって問題だしてないか?」

「いえ、そのような事は……」

「あるんだな」

「で、では私ではなくて、蒼羽くんが、だとして考えてみてください」


 はぐらかされているような気がしないでもなかったが、それ以上問い詰める気もなかったので、流しておいた。

 もしカルマが、として考えるのならばそれも考える余地すらない。

 桜花とは逆の意味ではあるが。


「汚ぇカルマは要らない」

「そういうことですよ」

「?……どういうこと?」

「身なりを気を付けるということは、そのように思われるのを避けることができるのです」

「あぁ……そういうこと」


 桜花は翔に身なりを整える大切さを教えてくれようとしていたのだ、と今更ながらに気づく。

 翔の反応が桜花の思っていたものではなかったせいで、えらく話が逸れてしまったが、恐らくはそういうことだろう。


「でも、桜花が直してくれたんだろ?ありがとう」

「翔くんは仕方の無い人なので」


 桜花が照れながら可愛いことを言ってくれるので翔は黙って桜花を自分の身体で包んだ。

 翔の抱擁に気づいた桜花は驚きの瞬きをぱちりと一つ。


 頭を撫でてやると桜花はふにゃ、と表情を緩める。必死に引き締めたものに戻そうとしているものの、気持ちよさには抗えないのかふにゃっとした表情が大体勝っていた。


「髪の毛が崩れてしまいます」

「ダメか」

「……いいですよ。けど、この後に時間を貰いますからね」


 桜花の髪の毛はお団子に纏められていていたのだが、お団子にするだけでも時間が必要なのだろうか。

 翔は今まで髪を整える、ということをしたことがないので、女性の髪の毛にかける時間は勿論、男性のそれですら知らない。


 だが、先程読み漁っていた小説の中にふと、女性の髪型について触れている場面があった。


「えっと……。編み込みにできるか?」

「編み込み、ですか?」

「うん、見たくなって」

「今まで見せたことありましたっけ?」

「いや、ない」

「ではどうして?」

「桜花に似合うと思って」


 翔はしょうがないですね、と微笑む桜花に満面の笑みでありがとう、と礼を言った。


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