第179話「パソコン」


 カタカタと手際よく、リズム良く、キーボードを鳴らしながら大欠伸を一つ。


 ふと、顔を上げて時計を確認するといつの間にか十二時を回っていた。明日、というよりも今日はもう土曜日だが、学校がなくお休みな為、明日のために早めに寝よう、ということはしなくて良い。


「珈琲でも煎れるかな」


 翔は珈琲を煎れるために席を立った。

 今の時間を鑑みればあまりいいとは言えない選択だったが、桜花は既に自室へと戻ってしまっているため、止めてくれる人がいなかった。


 翔がパソコンで何をしているか。

 それは今まで撮り溜めた数々の写真を整理していたのだ。


 綺麗に撮れた写真を始め、ボケてしまっているもの、この表情は……と恥ずかしくなってしまうようなものも。

 それら全てが今までの思い出であり、かっこよく言えば、編集作業をしているが、その思い出が鮮明に甦ってしまった時にはその手が止まることもしばしばだった。


 桜花はずっと翔の隣で離れようとしなかったのだが、規則正しい生活を心がけ、目覚ましがなくとも朝を起きることの出来る桜花の睡眠時間を減らすことには抵抗があったので、翔は不満気な桜花に頼み込む形で先に寝て貰った。


 自分は、というとこの体たらくではあるが。

 まぁ、休みだし何とかなるだろう、と楽観的に考えたところで、そういえば、と思い出す。


「……今日か。花火大会」


 気が付けば一週間はあっという間で、今日がその約束の日。

 桜花が「出来るだけ早く寝てくださいね」と心配してくれた理由が今になってようやくわかった。


 珈琲を煎れ、再びパソコンとにらめっこする。

 それからどれほどの時間が経っただろうか。かれこれ、2時間ほどは経過しただろう。

 翔の集中力もそろそろ限界を迎え、頼みにしていた珈琲も切れた。流石におかわりをする気はなかった。


 もし、更にカフェインを摂取した場合、翔は深夜ハイテンションの更に上の世界へと昇ってしまいそうだった。


「……まだ起きていたのですか?」

「……ん?桜花?」


 聞こえるはずのない声に振り返ると、そこには桜花が立っていた。

 あの美しく整えられた髪の毛とは裏腹に、その髪の毛一本一本の質は全く変わっていないが、寝癖が酷かった。


 どこかの芸術なのか、と見間違えそうな程だった。翔に芸術のイロハは皆無なので評価をくだせといわれても困るが、いつもと違う桜花の様子に笑い声が少し漏れた。


「どうした?」

「……私は水を飲みに」


 ほとんど寝ぼけている声で桜花は手馴れた手つきでコップを取りだした。

 どうやら桜花は体温が高いらしい。

 翔の部屋は別段防音仕様とは言えないが、翔自身が深い眠りにつくので、一旦寝てしまえばなかなか起きないので知らなかった。


「翔くんも寝ましょう?」

「うん、もう大体終わったからそろそろ寝るよ」

「勉強も……しないといけませんからね」

「肝に銘じます。……教えて欲しいことが色々と」

「頭の働く時に……一気にしましょう。今は……寝ましょう」


 桜花がふらりと倒れそうになったので、亜音速にも迫りそうな体感速度で翔は桜花を支える。


 体温が高いらしい、というのは本当らしく、翔の体温よりも若干熱い。


「疲れました」

「ここで寝ないで?!」

「……」


 翔の声も虚しく空を切った。

 揺すっても何しても起きる気配がない。毎回水を飲みに来ているのならばこういうことは起こらないはずなのだが、と翔は一つ大きなため息を吐き、桜花を抱えた。


 お姫様抱っこ、というやつである。


「ここで寝るなよ……」


 よっこいせ、と桜花が翔の身体の方に体重をかけるように調節し、翔は階段を上る。


 上ってしまってからふと、思う。


 これは、桜花の部屋に入ってもいいのだろうか、と。


 確かに桜花の部屋に入れてもらうことは以前に約束したことではある。しかし、それは桜花が起きている場合に限るのではないだろうか。


 しかも、桜花がいいよ、も言わなければ入れないという条件付きで。


 ここで翔は三つの選択肢が思い浮かんだ。


 一つは、今までの約束などは全て無視して桜花の部屋に入り、桜花を寝かせる。


 二つは、約束を守り、翔のベッドで寝かせる。


 三つは、もう一度階段を降りて、修斗達のベッドで寝かせる。


 それぞれ一長一短で、どれも正直選びにくい。


 桜花の部屋に無断で入るのは抵抗があるし、翔のベッドで寝かせてもいいものか、と疑問があるし、もう一度桜花を抱えて階段を降るのは元気一杯の男子高校生だとしても無理がある。


 翔は桜花を抱える手が震えてくる程には悩んだ末に、自分の部屋で寝かせることにする。


 翔の部屋には桜花も何度も来たことがあるし、起きた時に翔がいなければあらぬ誤解も生まないだろう。


「僕は……ソファかどこかで寝るか」


 たまにはこういう日があってもいいだろう。


 翔はゆっくりと起こさないように桜花を寝かせ、右手で頭を撫で、左手で手を握る。


 ぴくっと反応したような気もしたが、こんなに気持ちよさそうに眠っているのだ。そうそう起きることは無いだろう。


(大和撫子……作り物みたいに綺麗だな)


 人間らしい表情を見せてくれる桜花も勿論好きだが、何も発することなく佇んでいる姿だけでも充分に美しい。


 翔は名残惜しかったが、いつまでもそうしている訳には行かないので、ゆっくりと手を離した。


「おやすみ、いい夢を」


 翔は桜花の額にキスをひとつ落として、階段を降りた。


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